love story 10





頭が痛かった。
二日酔いではなく昨日一昨日、殆ど寝られなかったせいだろう。
いったい何がどうしてこうなったのか、ゾロには分からない。考えようとしても、がんがんする頭はろくに働いてくれない。
『別れよう、ゾロ』
彼の発言がゾロの中で時折リフレインされる。
ワカレヨウ。
シアワセニナレヨ。
……笑みすら浮かべていた。あの男は。
ゾロは洗面台の蛇口を捻り、氷のような水で顔をバシャバシャ洗う。髪や襟元も飛沫で濡れたが、そのうち乾くだろうと放っておく。ハンカチも持っておらず、ブルブルと犬の如くに頭部を振って水気を切った。肌や目は多少すっきりしても、暗澹とした心境までその効果は及ばなかった。
トイレを出て仕事に戻ろうとしたが、ちょうど昼のチャイムが鳴る。ゾロは階段を上がり、廊下をつっきって行った。
営業の部屋に入ると昼食の為に何人かは出払っていたものの、サンジはまだ残っている。書類を手にロビンと小声で話している様に、眉間に皺が寄るのが己で分かった。近づいていくとサンジが振り向き、それまでの柔らかい表情が一転して固くなる。
「ギリシャに行くのはいつなんだ?」
単刀直入に、サンジにというよりは二人に聞いた。
「…何だよ突然」
「俺には、それぐらい知る権利あるだろうが」
日本の生活も俺も全部捨てて行くんなら。逃げるんじゃなくて、ちゃんとケリつけていけよ。「見送りくらいさせろ」
「お前な。ロビンちゃんに失礼だろうが。だいたい向こうに行くのは…」
「構わないわよ。もう課長には話してあるもの」
足を組んで座っているロビンはゆったりとした口調だ。「出発は二十九日、十一時十分の飛行機。チケットも取ってあるわ。だからこの会社にいるのは、今年の仕事納めまでになるわね」
「二十九だと?一週間もねえじゃねえか」
「仕方ねェだろ、もう決まった事なんだから。てめェに文句つけられる言われはねえ。用が済んだら出てけよ。…ここは会社だぜ」
サンジは静かだが冷ややかな態度だった。場を弁えろと言いたいのだ。ゾロは下唇を噛んでいたが、やがてふいと踵を返した。
足音も荒々しくゾロが出て行くと、サンジは嘆息する。
「ごめんな、ロビンちゃん。あいつ礼儀知らずでさ」
「あら、彼はそれなりに礼儀正しい人だと思っているわよ」
ロビンは大きな瞳でサンジを見つめた。「それより追いかけなくていいの?随分怒って、動揺していたみたいだけれど」
「いいんだよ。あいつとの話は済んでる…筈だ。それより、ロビンちゃんは体調は万全かい?向こうは空気や食べ物も違うだろうし」
「平気よ。私ね、今とても楽しいの」
彼女には珍しく弾んだ口調だ。「仕事で、ずっとやりたかった歴史の研究にも没頭できるんだもの。日本にいると縛られて鬱屈してしまいそうだから…新しい生活はいいきっかけになると思うわ」
「そりゃ良かった。確かに以前よりもっと輝いてるな。君はどこまで美しくなってしまうのか…罪な存在だ」
「私があなたを好きなら、そういう台詞にときめくのかしらね」
「ひでえなあ。俺はこんなにロビンちゃんを敬愛してるのに」
サンジが嘆いてみせると、ロビンも屈託なく微笑した。
女性は芯が強いものだとサンジは思う。ふっきり方も潔い。土壇場まで追い詰められないと動けないのは男の方がよほどそうなのかもしれなかった。
「だからね、私はいいの。でもあなたは別よ。私に引きずられる必要なんて全然ないわ。後悔するなら止めておきなさい」
「…大丈夫だよ、俺は」
これは与えられた良い機会なのだ。そう思うことにした。ゾロといつかは離れなくてはならないのなら、早い方がいい。ずぶずぶと奥に入ってしまってからでは引き返すのも難しいから。おそらくは互いに傷つけ合ってしまうから、そうなる前に。
この選択は間違っていなかったと素直に過去を埋められる日が来る。自分も、ゾロも。


日にちは瞬く間に過ぎた。年の瀬でもありゾロも仕事が非常に忙しく、サンジに会おうと思っても連絡がつかなかった。昼休みも終業時にも意図的に避けられているのか捕まらない。電話しても繋がらずメールしても返事は来なかった。彼の中では、とうに決着はついているのだと──ゾロとの関係は終わってしまったのだと行動で表されている。
仕事納めの日もサンジは明日の用意があるからすぐに帰ってしまったと聞かされた。直接家に行くかと思ったが、サンジと深く付き合ったのは一ヵ月ほどで週末となると彼はゾロの部屋にばかり来ていてその逆はなかったのだ。
もし家を知ってたら、野宿覚悟で押しかけていただろうか。ストーカーだと通報されたかもしれない。男が男に?三面記事もいい所だ。が、しなかったという保障はなかった。
どうしてサンジが別れを切り出したのかはまだ分からない。
カンに触る奴。最初のそんな出会いから少しずつだが彼を認め、同性である彼が気になって欲情して、大切になって。世間的に間違ってはいてもサンジといたいと思ったし、それは決して一方的な感情ではないと信じていた。激昂して酷い言い方をしたが、サンジが興味本位や遊びで男と寝るとは本心では思っていない。彼の裏切りだと認めたくはなかった。それでもサンジがロビンと共に日本を去ってしまうのはどうしようもなく事実なのだ。
──まんじりともせずに夜が明けて、ついに二十九日の朝になった。
ゾロは駅まで行ったがちょっと悩んでからタクシーを拾い、空港まで乗りつける事にした。交通手段に疎いので、直接行った方が確実だと思った。時期的なものか道が相当混んでいて苛々させられるが、仕方がない。一刻でも早く着くよう祈りながら外の景色を眺めていた。
黙って見送るのか。
引き止めて縋るのか。
ゾロにも不明だった。会いたい。会わなければ。彼を衝き動かすのは、ひたすらにその思いだ。
彼の顔が見たかった。あの金髪を、あの表情豊かな瞳を、あのしなやかな癖に男くさい物腰を、最後にひとめだけでも。……最後?
何が最後だというのだろう。同じ会社にいるのになかなか会えない歯痒さはかえって彼への気持ちを募らせたが、会えば満足して諦められるのだろうか。
元気でな、と。お前と会えて良かった、などと。そんなふうに綺麗に別れられるってのか俺は。
無理だ。不可能だ。束の間の恋の思い出としての整理をつけたくて行くのではない。実際にはサンジの意志など頓着せず引きずってでも飛行機に乗せたくないぐらいなのに。
エアポートラインの印がある道に入ると空港が見えてくる。時計を見ればもう十時を過ぎていた。意外に時間がかかってしまった。電車やバスではないのだからぎりぎりに行って間に合うとはゾロも思わないが、急ぐしかない。会ってどうするとか考えている余裕はなくなっていた。
釣は要らないと一万円を出して降りようとすると、足りないと中年の運転手に呼び止められる。舌打ちして千円札を数枚、動作としては渡すと言うよりもほぼ投げつけタクシーから飛び降りた。
旅行など滅多にしないし、飛行機など子供の時に乗ったか乗らないかである。広々とした空港のどこに何があるかさっぱりだった。搭乗手続きに並んでいる者を押しのけて人込みを進み制服を着ている男を捕まえる。
「ギリシャに行く飛行機はどこから出る?」
「こちらは国内線ですよ。国際線の搭乗口はかなり離れておりますが…」
短く礼を述べ、教えられた場所に急ぐ。
やっとロビーに入っても、どこから乗るのか見当もつかないのでとりあえずインフォメーションセンターを目指した。突進してきたゾロを受付の女性オペレーターが目を丸くして迎えたが、彼の問いに少し戸惑った風情である。
「ギリシャ…ですか?直通便は出ておりません。パリ、ミラノ、フランクフルト、アムステルダムなどを経由して戴かないと。チケットをお求めでしょうか」
ゾロは海外旅行など経験がないからそんな事は知らなかった。丁寧でおっとりした応対に焦れて台を叩く。
「どこ経由かなんて知らねえ。とにかく…今日の十一時十分発のだ」
「それですと、フランクフルト経由になりますね。お見送りでいらっしゃいますか?搭乗時刻は過ぎておりますが…」
「過ぎててもいい。乗り場はどこなんだ!」
凄まじい剣幕にびくびくしているオペレーターにあちらですと指で示された方向へ、ゾロは再び全速力で走った。
近くに行けばきちんとプレートで搭乗口の案内が出ていた。床はぴかぴかに磨き上げられていて勢いがついていたゾロの足は急には止まれず、転んで強かに腰を打つ。ガタイのいい男が派手に仰向けに転ぶのは辺りの注目を集めた。しかし、そんなものはちっとも気にならない。ガバと起き上がる。
やっと着いたゲートは閉め切られていた。
「おい、そこ開けてくれ」
唐突に食ってかかられたその場の係員はとんでもないと首を振った。
「お止めください。離陸準備に入っておりますので、危険です」
「俺はあいつに会わなきゃならねえんだ!開けろ!!」
係員の襟首を取って叫んだ声が高い天井に反響した。何事かと空港会社の警備員が二、三人駆けつけてくる。ゾロは腕や足を押さえつけられて抵抗したが、さすがに殴ったりするわけにもいかない。
揉み合っていると、巨大スクリーンみたいな硝子窓から飛び立つ飛行機が目に入る。
白い両翼が遠ざかり美しく澄んだ青空へ消えていった。
──サンジは行ってしまったのだ。
まるで出来損ないの映画かドラマだと。他人事のように考えゾロは全身の力を抜いた。




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