楽園追放10

 

 


硬くごつごつとして意外に体の幅があっても、自分の腕が回るのは彼の存在をちゃんと確められる気がして安らぐ。気がするだけなのは分かっている。
恋人を抱いている風に見えなくもないのに、そんな甘い事態もサンジ本人へもゾロはあまりに遠い。
今ここにいるのはサンジの抜け殻みたいなものだと知りつつも、縋っていたかった。少なくとも体温だけは感じていられる。
どれくらい、そうしていただろう。近づいてくる足音を耳聡く聞き取り、サンジが僅かに身じろいだ。
終わりの時間だ。
ゾロは一際力を込めてサンジの体を抱きしめた。彼の感触を忘れまいとするかの如く。
「…悪かったな」
低く声をかけて、離れる。適切な言葉だという自信は持てなかったが、この場に相応しいのではないかと思った。
サンジが黙ってシャツを着てボタンを素早く止めると、ウソップが騒々しく扉を開け入ってくる。
「カーッ、寒いな畜生!お、ゾロもいたのか」
「ああ」
「分かった、酒だろ?寒いしな。俺もおかげで目が覚めちまったぜ」
「単に腹減ったんじゃねェのか。夜食はそこだ。待ってろ、熱い飲み物も作ってやる」
オープンサンドを指差して、流しの方を向くサンジの口調は既に普段通りだ。まったく見事なものである。ゾロはテーブルに置いてあった酒瓶を取り、話しているサンジとウソップを尻目にそのままキッチンを後にした。ぴりりと皮膚に痛いほどの冷たい夜風が吹いている。ゾロは甲板に座り込んで酒を呷った。
左手を開き、抱擁の余韻を惜しむようにそっと掌に唇を当てる。
多分、もう奴に言う事はない。
サンジなら何もなかった事にしてしまえるだろう。あの島での事件同様に。
納得してもいないし諦めたいのでもないが、闇雲に向かったとしても何も得られないどころか彼はますます遠ざかってしまう。今度こそ完全に、ゾロの手の届かないところへ。
だったらサンジがこれ以上自身を閉ざしてしまう前に、詮無い感情は切捨ててしまうべきなのだと、ゾロは決めた。
俺はきっと、欲しがりだせば止まらなくなる。
サンジが与えてくれるのは仲間としての彼だけで、そんなものではとても足りない。抑制なんてきかずに、満足ゆくまで彼を貪り尽くしてしまいたくなるから。
迂闊に手を出せば傷つけると知ってはいても。
「───ホラ、ココア」
サンジは、パンを頬張っているウソップに湯気の立つマグカップを渡す。昼間の饒舌よりはいささか冴えない、狙撃手のいつもの他愛もない話にサンジはいつもより上の空で相槌をうった。
「さあもうひとふんばりだ!ご馳走さんな」
ウソップが伸びをして出て行く。
一人になったサンジは食器を洗い始めた。片付け物をしてしまうのは習慣になっているのだが、今夜は眠れるとは思えないから殊更ゆっくりと洗った。
悪かった、とゾロは言った。
あの、唯我独尊の横柄な剣士が。行いを振り返る前に突き進むのを選ぶ男がそう言った。
しかし謝らなければならない事などあっただろうか。
抱けと言ったのを抱かなかった為の謝罪では無論なく。落ち度など、ない。
ゾロは、サンジを苦しめたのだと度を失っていた。
他人の心理にも自己のそれにも甚だ疎い男だが、故に一度陥ると制御の仕方を知らずにうろたえる。ましてや、人を懸念するなどほぼ初めてだろう。しかも同性に。
表面きっては出ない剣士の当惑は、サンジにも予想できた。
周囲に興味を持たず過ごしてきた彼が、対人に幼いのは至極尤もな事かもしれない。
そして、さしずめ悪意のない悪戯を叱られた子供がとりあえず謝るような真似をした。
ああ、でも。
サンジは苦々しく笑って煙草を噛む。
そんなのはかえって酷だと教えれば、あいつまた混乱するかな。
おくびにも出さないから、まず奴は気づかないだろうが。
いっそ、あのまま乱暴に貫かれた方が良かったかとすら考えた。
本気で抱かれたいと思っていた筈もないが、体の痛みに襲われる方が幾らかましである。
もうこれでサンジは、ゾロを蔑むことさえできなくなってしまった。
…つくづく、自分の思考とは相反する男だ。
すべて洗ってしまうと、サンジはジャガイモの皮をむき始めた。それが済むと、今度はスープを煮込み始める。まだ朝までは長い。
明日の朝はひどく手をかけた食事になってしまうなと思った。
サンジは両腕で自身を包む。ゾロが先刻触れていた場所。まるで指の跡が残りそうなくらい、最後の瞬間はきつく抱かれた。
レディならもっと優しくしねェと嫌われるぜ、と独り言つ。



「はい、おやつをどうぞ。レディには脂肪分控えめの生クリームだよ」
暖かい日差しが羊号に満遍なく当たっている。
サンジが女性用にと可愛く飾りつけた小さめのオムレットを、ナミとロビンの前に置いた。
「ありがとう、サンジくん」
走り回っていたルフィがおやつと聞きつけサンジに飛びつく。それを足蹴にしながら、ウソップとチョッパーにも配り、それから鉄の塊を持ったゾロにも小皿を見せる。
「てめェも食うか」
ゾロはただ首を振り、歩いて行った。
「愛想がないのはいつもだけど…最近特に口が重いわね、ヤツは」
ナミはラム酒漬けのチェリーをつついて、サンジを見る。「で、コックさんはいつにもましてお喋りで働き者」
「んん?だってさ、ナミさんたちを見てるといくらでも賛辞は出て来るし。料理してる方が落ち着くんだよ」
「それはいいけど、ちょっと動き過ぎ。まだチョッパーは全快の太鼓判を押した訳じゃないでしょう」
「心配してくれるの?嬉しいな〜」
サンジが両手を組むと、ナミはヒョイと肩を竦めた。実際、サンジはここ数日休んでいる様子が殆どない。料理の下拵え以外はウソップの大工仕事を手伝ったりしている。
「倒れられて迷惑なのはこっちなの。近くに大きな島もあるから、ちょっと休憩しましょう」
クルーがいるとどうしてもサンジは働きづめになってしまう、というナミなりの配慮だった。「食糧も補充できるし」
「前から思ってたけど、まるであなたが船長みたいね」
ロビンが言うと、ナミは海図と睨めっこをしつつ。
「だって頼りにならないもの、ウチの船長は」
「あら、航海士さんを全面的に信頼してるってことじゃない。素敵だわ」
ロビンは顎に手を当ててにっこり笑った。女性二人の邪魔をしないよう、サンジはキッチンへ戻る。
野菜ジュースに一つだけ残っていたライムを絞り、グラスに注ぐとサンジは剣士が鍛練している後尾へと向かった。
やや荒いが規則正しい呼吸と、鉄が空気を切る音がリズミカルに響いている。もう少し立てば休憩を挟むのを知っているサンジは、トレイを持ったまま剣士を眺めていた。氷が溶けるのも計算に入れ、濃いめに作ってある。これは特別扱いではなく、クルーの誰にでもするコックとしての気遣いだ。
ひとしきり大きな息を吐いた頃合を見計らって、サンジはグラスをマドラーで混ぜるとゾロに差し出した。
「飲んどけ」
「……」
ゾロはサンジの手元とグラスを凝視していたが、無言でそれを受け取った。ゴクゴクと飲み干して口元を拭う。サンジが煙草を咥えて火を点した。
「もう駄々こねる気はなくなったか?」
「…誰がだ。人聞きの悪ィ事言うな」
「ハ。人聞きだって?他の奴がどう思おうが気にやしねェ癖によ」
サンジは肩を聳やかすと、剣士に背を向けた。
「てめェは気にしすぎだ」
「コックは神経細かくなきゃ、商売やってられませんので」
振り返りざま、サンジは会釈して見せた。
「そりゃてめェの勝手だが」
ゾロはまた鉄の塊を掲げた。「必要以上に俺に構うな」
サンジはちょっと眉を上げるが、剣士は顔を背け鍛練を繰り返し始めた。
どうやら決着をつけたみたいだ。彼なりに考えて、これまでの事を断つつもりなのだろう。故に不用意に近づくなと告げたか。
元通りにといったら本当に額面通りにしか受け取らないんだな。
ごく単純で無駄がない。
まったく、この剣士らしいと感じた。
そしてやっぱり愚かだとも。
長所か短所か…どちらにせよ、羨ましくもある。習いたくはないものの、サンジには決してできないゾロの生き方。
中途半端はしろと命じてもできない。黒か白か、ゼロか一しかない。
そうやって彼は歩き続けていく。
サンジのように蓋をして抱え込んだりはせず、不可なものは捨てて乗り切る。潔い。
ゾロは退いたのではなく、サンジを通り越していくのだ。
もとより違う道を歩いてきた人間同士、すれ違う接点で目をちょっと奪われただけだと思えるだろう。すぐには無理でも、時間の流れと共にいつかは。
素振りする度に剣士の汗が飛び散り、陽光に反射してきらめいていた。 コックは紫煙を吐くと、剣士が手すりに置いたグラスを取り上げる。
甲板へ行くと次の島への上陸準備を進めるわよとナミが声をかけてきたのに笑顔で答えて、サンジはキッチンに入ると流し台に水を張りグラスをつけた。

───奴は、それで良い。
世界を見据えたどうしようもない馬鹿で。

……とてつもなく、大きな男になればいい。



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