楽園追放 4

 

 



台所は芳ばしい匂いに包まれている。
「そう、そこで刻んだバジル入れてみて。二つまみくらい、かな」
サンジの指示どおりに、女の少し荒れた手が香草を取り銅の鍋にパラパラと撒き散らす。そして中身を皿に移すと、大きめのスプーンでちょっと掬って口に運ぶ。
「へえ!」
感嘆の声を上げ、女が目を丸くする。「ちょっとの手間とかでずいぶん違うもんだね。こんなの、自分じゃ考えもつかない」
「俺は職業柄だよ」
「そうか、コックさんだったね。あんたがいれば私の料理の腕もマシになりそうだわ」
「君の料理も勿論美味しいけど」椅子に腰掛けたサンジがふと気になったように。「───そう言えば何でか、名前をまだ聞いてなかったな」
「私のかい?名前なんか…必要ないから、忘れちまったよ」
女は両肩をヒョイとすくめて見せた。
「じゃあ、レディで。もし思い出したら教えて」
「…レディ、だって?そんなふうに呼ばれるのは生まれて初めてだよ。あんた、この私が貴婦人に見えるのかい」
女が巻き髪を揺らして冷笑するが、サンジは至極真面目な顔で煙草を咥える。
「俺にとって全ての女性はレディです。尊い、守るべき存在だ」
「尊いなんて、よく言うね。あんたを襲った連中を見ただろう?ここには汚れた人間しかいないんだ。船乗り崩れが多くてね、女は少ないから皆飢えてる。私だって、前の頭の下に着くまでは何度襲われたか分かりゃしないよ。娼婦より性質が悪い…一度に一人なんて事は滅多になかった。しかも金も貰えないんだからね」
彼女は過去を顧みたのか忌々しげに首を振った。「海賊に騙されてここに来た、馬鹿な女の話を聞きたい?」
「君が話して楽になるなら、聞くよ。愛の抱擁つきで」
腕を広げて微笑むサンジを、女は不思議そうに眺める。
「───あんたって…ゾロもだけど変わってるよ。まあ、私はこんな吹き溜りみたいな所でずっと暮らしてきたから、そう感じるだけかもしれないけど」
「あのクソ剣士と一緒にされるのは、かなり心外だぜ」
大袈裟にげっそりした顔をサンジが作ったので、女は今度は本当に可笑しそうに笑い出した。
「…えらく楽しそうだな」
朝の鍛練を終えたゾロが、タオルを首にかけ額の汗を拭いながら台所に入ってきた。
「またてめェは!レディがいるのにムサい体さらしてんじゃねェよ、見苦しい」
サンジがテーブルに置いてあったピーナッツの缶を、剣士の胸から腹にかけて走る傷に狙いを定めて投げた。
「暑いんだよ。喉も渇いたし腹も減った」
ゾロは難なくそれを受け止めると、蓋を開けて中から豆を掴み口に放り込む。
「猿かてめェ」
もごもご咀嚼している剣士に、サンジが呆れ果てた様子で言った。「メシの前にシャワーでも浴びて来い、クソマリモ。雑菌だらけでも悪食のお前は死にゃ死ねェだろうが、せっかく作ってくれたレディに失礼だ」
命令じみた台詞にゾロはむっとしたが、何も言わず出て行った。
浴室に入って錆びた蛇口をひねる。しばらく経たないとお湯が出ないのだがゾロは構わず身を投じた。汗ばんでいる為、水の冷たさが心地良い。
(あのコックはさっぱり分からねェ)
短気なうえに感情の表現がオーバーで女好きの料理人、サンジはゾロにしてみればその程度の認識だった。同じ男でも理解し得ない未知の生物である。最も向こうもそう思っているかもしれないが。
もともと仲が良い訳では決してなかったから判断材料は少ないし、ゾロは他人の心理を読んだりするのが決して得意とは言えないが、サンジの様子は彼が襲われた時にしろ昨夜にしろゾロにとっては意外なことばかりだった。
暴れて手がつけられなくなるのではないかと思っていた。いや、足が不自由な今は暴れようもないのかもしれないが、それでも苛ついて八つ当たりくらいしそうなものだ。
だが彼は錯乱したり泣き叫んだりせず、正直拍子抜けした程である。先刻だって、あの女を相手に楽しそうに振舞っていた。
昨夜の脆さなど、微塵も感じさせない。まるで夢だったかとさえ思える。
しかし、やはり夢や幻ではなかった。吐き出すようなぶつけるような、サンジの静かな激昂をゾロはしっかりと覚えている。そして彼は自分に降りかかった出来事を気に病んでいないわけでも当然なく、己の奥深くに抱え込んでしまったらしいと昨夜漸く知った。
それはこれまで見たことのない部分だけに鮮烈で。
ピンと張り詰めた糸みたいな鋭さが───忘れられない。
ゾロはブルブルと頭を振って、シャワーの水流を更に強くした。


夕焼けがじわじわと島全体を紅く染め始めている。
女と共に買い物に来たのはいいが、いつの間にかはぐれてしまった。荷車に山と積まれた袋の間にサンジは長い足を持て余しながら、見様によっては退屈そうに座っている。邪魔になるのも悪いから留守番しているとサンジは遠慮したのだが、ゾロと女がそれを説得して連れてきた。サンジを襲う者が再び現れないとは限らないし、警戒するに越した事はない。ゾロもあまり周りを気にする性格ではないが、自分を歓迎していない輩がいるのは分かっている。強さに任せて頭の座に居座った、どこの馬の骨とも知れない男だと。ただ剣士には敵わないと分かってるから、皆抵抗しないだけだ。
「ウロウロしても仕方ねェな…。先に帰っとくか」
ゾロが呟いて、荷車をぐいと押す。
「そっちは逆だ。この方向音痴!」
「仕方ねェだろ。この辺来たのは初めてなんだよ!」
「俺だってそうだぞ。行きと同じ道通りゃいいってのが何で分かんねェかね。ったく、俺がついて来なきゃまたどっかに迷い込んでたところだぜ」
「うるせェ」
人気のない高台に差しかかった所で鈍い音と共に車輪に石が挟まった。ゾロは急に進みが悪くなったのは坂のせいかと、力を込める。
「うわ」
荷車がのめって引っくり返った。当然乗っていたサンジも荷物と共に投げ出される。
「───おい、大丈夫か」
「気ィつけろ、アホ」
思わず駆け寄ったが罵りが返って来た事に安心したゾロは、車輪に入り込んだ石を外しにかかった。
サンジは悪戦苦闘しているゾロには頓着せず、膝を立てて座り遠くを眺めている。
「景色だけは綺麗だよな。そう思わねェか」
夕陽に照らされ切り立った崖のラインはくっきりとして色鮮やかだ。だが、やっと石を取り頭を上げたゾロはサンジの横顔の方に目を奪われた。光を反射して鈍く輝く金髪に縁取られた輪郭は、相変わらず線が細い。凛としているのにどこか不安定に思えるのは何故なのだろう。
視線を感じたのか、サンジが不審そうにゾロを見た。剣士はぽかんと開いていた口元を引き締め、適当に応える。
「…作物もあんまり取れねえって聞いたし、住むには向いてない所だろ」
「そんな風に言って、実は当分ここにいるのも悪くねェとか思ってんじゃねえのか。あのレディも一緒だしな」
「あん?何言ってやがる」
「てめェは彼女を独り占めしてるとかって奴等が言ってたぜ」
「…勝手に思い込んでるだけだろ」
「隠さなくたっていいんだぜ?別に俺ァどうでもいい」
サンジは強くなった風に、前髪を押える。「ま、あんな美人てめェにゃ不釣合いだがな。彼女も珍しいだけなんじゃねェか。そのうち、てめェはただの寝腐れ筋肉で面白くも何ともない男だって気づくだろ」
からかい混じりでニヤつくサンジに、ゾロは仏頂面のままだ。
「あのな。勝手に発展させんな。別に俺はここにいたい訳じゃねェぞ」
「ハイハイ、分かってるっての。俺がいるから、てめェはここから離れられないんだよな?」
サンジは事も無げにさらりと言った。あまりにあっさり流されて、ゾロは二の句が継げない。
手を差し伸べる隙も与えないのは卑怯だ。理不尽かもしれないがそう思った。
「───ルフィも、きっと俺達を探してんだろ。何とかなるさ」
「……俺ァ深くモノ考えねえてめェなんかよりも、よっぽどリアリストでな」
サンジは目線を再び遠方へ戻す。「助けを待ってたって来ねェもんは来ねえ。昔遭難した時だってそうだった。この前犯られた時だって。残酷なもんだぜ…海も、現実もな」
「そんでも、ガキの時は助かったんだろうが」
「諦めるなってのは、クソジジイが身をもって教えてくれたしな。多分一人だったら耐えられなかった」
そこまで言って、喋り過ぎたと気恥ずかしくなったのかサンジは口を噤んだ。
「…じゃあ、今は俺が一緒に待ってやる」
「アホか、気色悪い。だいたいガキの頃の話だっつの」
サンジが皮肉に肩を聳やかすが、ゾロは構わず言葉を続ける。
「だからヘンな我慢は止めろよ」
「───お前何かカンチガイしてねえ?ひょっとしてアレか。昨日俺が泣き言みてえなの洩らしたからだろ。……ああ、確かに今の俺は弱ってんだよ。こう言や満足かねえ、クソ単純でお優しい剣豪サマは。けど俺ァ、一緒にいてもらうなら美女の方がよっぽどイイぜ」
「…無理、すんな」
ゾロは居た堪れなくなりすぐ隣にあった金色の丸い頭を引き寄せた。勢いサンジの体がゾロの胸に倒れてくる。
「人の話聞いてんのかよ。ったく」
サンジは文句たらたらだったが、やがてふっと気が緩んだように息をつく。「……つけ込むんじゃねえ…馬鹿が…」そっと瞼を伏せたのは、ゾロからは見えない角度。
意図せず唇に触れた彼の金髪は、乾燥していたが温かく柔らかかった。
二人は暫しの間黙って身を寄せ合っていたが、誰かの足音が聞こえてきた為サンジがパッとゾロから離れる。
「…帰るか。日が暮れちまう」
ゾロも少し焦った風情で散らばった袋を荷台に乗せた。サンジも同様に戻そうと抱えた瞬間、自然顔が近づいてゾロはギクリとしたが、その動悸は近づいてきた女から声をかけられた事により曖昧になる。
「良かった、ここにいたんだね。迷ったのかと思ったよ」
サンジが頬に血が滲んでいる彼女を見て、
「どうした?綺麗な肌が台無しだ」
「あ、ちょっと───転んで」
女は自分の頬を手で覆った。
「転んだ傷と殴られた怪我は違うよ、レディ」
優しいが誤魔化しを見逃さない語調に、女は諦めたようだ。
「…元々この島にいた頭がね…しぶとく生きてやがったのさ。ゾロに何とか復讐したいみたいでね、連れ出せとか薬飲ませて足腰立たないようにしろとか私に指示して来た」
「で?」
「聞く気なんかないから、撥ねつけてやったよ。それで叩かれたってわけ」
「そうか。とにかく、早く手当てしないとな。オイ、帰ろうぜ」
サンジがゾロを促せば、剣士も頷いて荷車を押す。女が後ろを歩きながら、複雑な表情をした。
「……私を信じるのかい?」
ゾロが何も言わないので、サンジが女を振り返りニッと歯を剥き出して笑う。
「レディはいい人だから。疑う理由なんかないよ」
日は殆ど落ち、夜の帳が下り始めていた。





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