羽根のない鳥 6

 

 

ひんやりとした掌が傷の上を移動する。左の上腕をなぞられてゾロがピクと反応すると、サンジはゾロを見上げた。
「痛かったか?」
「…いや、平気だ」
しばし視線を合わせていたが、やがてサンジは傷口に薬を塗布する作業を再開した。
「他の奴らは戻ってきたのか」
「ああ、ウソップが呼び戻してくれたみたいだ。ルフィはまだ見つかってないとか言ってたが、ナミさんもロビンちゃんもさっき帰ってきてたな」
「チョッパーは?」
「薬の買い足しに行ってる。範囲が広いから、傷薬も足りねェみたいだし」
襲撃から二日が過ぎている。男部屋での内容はともかくゆったりした調子の会話、まさかそんな事はないだろうがこんなふうに静かなやりとりをコックとするのは初めてか或いは非常に久しい気がした。
表面上の平穏さとは逆にゾロの神経は立つ一方であるが。
「ナミさんたちがどうしようか考えてくれてるから。ゾロ、あんたはゆっくり療養した方がいい。チョッパーからも言われてるだろ」
まったくふざけた話だ。
他のクルーにとっては何ら変わらないのに、このサンジという男は自分にとっては別人になってしまった。そういう意味では、お互いに同じ立場だった。
サンジのこんなごく穏やかな瞳も口調も、知らなかった。向けられた覚えはゾロにはない。けれど、これも本来の彼の一面なのだろうと感じる。自分が見ようとしなかっただけだ。この男に深く立ち入ろうなどと、これまでは思ったりはしなかっただけで。
ゾロに対しては突っかかってくるばかりだったが、女性はもちろん船長や狙撃手や船医にだって穏やかに接したりすることはあっただろう。
取り分け好んで争いたくはないのだからある意味これもそう悪い事態ではないのかもしれないが、サンジの態度が柔らかいのは自分についての記憶がすっぽり抜け落ちているせいだと思うと手放しでは喜べない。
いったいどういう心積もりで自分に抱かれていたのかも、彼は記憶の彼方に放り出してきてしまった。
ゾロだけを忘れるなどと、最初はとても信じられなかった。だがもし演技をするにしても実際に忘れたにしても、それほどにゾロを自分の中から抹殺したかったのだという事実には大差はない。
そしてそれほど関りたくないと思っていたにしては、サンジはゾロの怪我の手当てや世話を己から進んでやった。チョッパーの手伝いは勿論、食事にしても手が使い辛いと頼めば食べさせてくれそうな勢いだ。これが演技だという可能性をゾロの中から消していく。
「てめェの頭の傷だって治りきってねえのに、えらく世話を焼きたがるんだな」
包帯を巻き終えたサンジは、ゾロの質問にちょっと首を傾けた。
「少しでもあんたの近くにいた方が早く思い出せるかと思って。それに…あんたの傷は俺が原因だし」
「なるほどね。随分と殊勝な言い分だ。とてもクソコックとは思えねェ」
「…俺、そんなにあんたと仲悪かったのか」サンジがふっと苦笑いする。
「何でそう思う?」
「普段はもっと喧嘩腰だったんだろ?それに、あんた…たまにものすごくきつい目で俺を見るしな」
「仲は、どうだろうな。良いと言えなくもねえ事はしてたぜ」
ゾロはソファから起き上がるとゆっくりサンジの肩に手を置いた。彼は訝しげに眉を上げる。
本当に忘れてたとしたら、セックスをすればそれが思い出すきっかけにならないだろうか。それてもただ、すました顔をしているコックに男と寝ていたという事実を叩きつけてやりたいという子供じみた心境だっただろうか。ゾロ本人にも得体の知れぬ感情に追い立てられ、サンジのシャツのボタンをひとつひとつ外していく。
「ちょっと待て」
やっと察したかの如くサンジが腰を引いた。「そんな…関係だったのか?男同士で、何で?」
そんなの俺が知るか。てめェが一番よく知ってる筈だろ、という台詞は飲み込んだ。サンジがあまりに苦しげな表情を見せたからだ。
他の言葉を探して喉から押し出す。
「…処理みてえなもんだろ、きっと。女好きのお前が男と寝るなんておかしいしな」
そう片付けるのがおそらく一番簡単だろう。
「そっか…でも悪いな。俺…もうそういうのは…」
「分かってる。試してみただけだ」
奥底で割り切れない感情はあるが、無理矢理犯そうとしてもゾロの傷口が開くような行動は今のサンジはさせないに違いない。
結局、自然にサンジがゾロを思い出すのを待つしかないのだろうか。
しかし、それが待ち遠しいのかそうでないのかはゾロにはよく分からなかった。
「──ただいま。サンジ、ご苦労さま」
人型になったチョッパーが荷物を抱えて入ってきた。トナカイだけでなく、他のクルーたちも一緒になってぞろぞろと降りてくる。
「ゾロ、さすがのあんたでも全身包帯はちょっとばかり痛々しいわね」
「掠り傷ばっかりだ。寝てりゃ治る」
「おいおいゾロ、医者の前で治療が虚しくなるような事言ってやるなって。なあチョッパー?」
「いいよ、ウソップ。安静第一なのは確かだから」
ゾロの物言いにもすっかり慣れたチョッパーがサンジを見る。「サンジは、特に変わったところはない?」
「ああ、俺は大丈夫だ。それよりルフィの奴はまだ見つかってねェのか?」
「うん…どこに行っちゃったのかしら。まあ、ルフィがいても話し合いにはあんまり役には立たないけどさ」
「船長さん、どこかで捕まったりしてないといいんだけど」
「そうなのよ」
ロビンに頷いてみせ、ナミが壁に凭れて両腕を組む。「この船を襲った奴らの狙いは、ゾロかルフィじゃないかと思う。でかい賞金首がやってきたって町で噂になり始めてるわ。撒かれた薬なんだけど、この島には大きな薬品工場があってその産業が発展してるみたいだから…」
「そこの連中がやったじゃねェのか」
「短絡しないのよ、馬鹿ね。街に出回ってるんだから誰にだって入手可能だわ。それよりも襲ってきた奴らをちゃんと見たのはあんただけなのよ、ゾロ。何か特に印象深かったこととかはないの?」
「…さてな。白い煙だらけでろくに視界もきかなかったんだ」
「役立たず」
ナミはあっさり切り捨てる。「他にもサンジくんの記憶のこととか気になることはあるけど」
「ナミさんが心配してくれるなんて、幸せだな〜」
「はいはい」ゾロ以外には普段通りだし料理もちゃんとこなすので、ナミもさほど深刻には捉えてない風情で軽く流した。「とにかく二度目の襲撃がないとも限らないからそれに備えなきゃ…あと、ルフィを探しに行かないとね」
「とりあえず、そろそろ夜になるから夕食作るよ」
サンジは誰に言うともなく言い、キッチンに向かう。
冷蔵庫から肉などを出しサンジは迷いのない動作で下拵えをしていった。
カチャリと静かに扉を開く音に、野菜の入った木箱からじゃがいもを吟味していたサンジはそちらを向くより早くにこにこと微笑む。
「ロビンちゃん、喉でも渇いた?野郎どもと違って腹が減ったなんてことはねェだろうし。寒いから紅茶にブランデーでも落とそうか」
「そうね…いただこうかしら」
ロビンが頷くやすぐにサンジがお茶の用意をする。恭しい手つきで出された、花びらの浮かんだ紅茶を飲んで美味しいわと呟くとサンジは相好を崩した。「私の好みまでちゃんと覚えてくれてるのよね」
「そりゃあロビンちゃんみたいなレディのことなら、どんな事件があったって忘れやしませんとも」
「でも、この船に乗って一番日が浅いのよ」
「ゾロとの方が付き合いは長いのに不思議、か。気使いしてくれてロビンちゃんはやっぱり優しいな」
「そうかしら」
「優しくて、大人だ」
「年齢の話?」
「とんでもない」 サンジは大仰に両手を広げておどけた仕草を見せる。
「…ねえ、私が考古学者なのは知ってるわね」
「もちろん」
急に話が飛んでも女性に逆らうサンジではない。
「それでなのかしら、真実というものは隠し切れないと信じてるの、私は。いつかは明るみに出る日が来る。誰が望んでも、望んでなくてもね。──ご馳走さま」
サンジは微かに息をつき、ロビンの残していったカップをそっと流しにつけた。
敏いロビンには気づかれているのだろうか?だとしたら追求しない彼女に感謝すべきかもしれない。

本当にあのまま彼を忘れてしまえてたら、どんなに良かっただろう。

頭の打撲のせいか、覚醒してからもかなり意識が揺らいでいた。チョッパーに言われて、ゾロ、ゾロって誰だっけ、とぼんやりした頭で繰返したのをそのまま口に出した。
隣に横たわっている血塗れのゾロが目に入る。
…俺を庇ったのか。
絶対に守られたくない男に守られてしまった。ゾロに庇護させるような行いは、最も避けたかったのに。自分のせいで。
サンジがゾロを眺めている横でチョッパーとウソップが、彼を忘れたのかと騒いでいた。
忘れはしない。忘れたりはできない。だけど、忘れたことにしよう。
──それが一番いい。
心配するクルーたちには申し訳なくもあったが、白紙の状態に戻す為の小さな嘘は許されるのではないかと思った。平気になれた時記憶が戻ったふうを装えば多分問題ないだろう。
あいつの事を思うなら、忘れよう。
原因は何もかも、そして悪いのも俺だ。自分の存在は、ゾロの妨げにしかならないのを承知で抱かせた。
体だけでいい、一度だけでもいいから。
そう思っていても欲しがるこの気持ちは満足しなかった。恰も飢えた獣同然にすべてを抉って貪りたかったのはこちらの方だ。経緯はどうあれ、ゾロはサンジを抱くはめになった。齎される恐ろしいほどの悦び、そしてそれを上回る身が締めつけられるような自己嫌悪、彼を欲するべきではなかったのに抑え切れなかった罪深さがサンジにのしかかる。望んではいけなかった。彼が進み続ける道に足を踏み入れてはいけなかった。果てのない混沌に引きずり込むべきではなかったのだ。
知っていたのに。

サンジは腰掛けるとテーブルの上で両手を組み合わせ額を支える。
悔恨よりは、せめてこれ以上波紋を広げたりしないように決意をしなくてはならなかった。
口には到底出せないけれど、そのぶん胸の奥底にまで言葉を落とす。


ゾロ。
ごめん…ごめんな。

でももう、お前の邪魔はしねえから。そう決めたから。
……ごめん。

 

心に深く強く言葉を刻みつける。



 

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