ノクターン 9

 




「嫌だ」
「サンジ」
「嫌だ…!」
覚悟をしていたのだろうか、彼はそう驚いた様子はなかった。けれど、受容はできないというふうに頑なな態度を崩さない。
「サンジ、とりあえず一度家に帰って…冷静に考えてみてくれ」
漸く取り戻した言葉も無力だと思う。それどころか彼を抉る武器にしかならず。だが、言わなければならないのだ。
「考えたって同じだ。俺が来なくなったら、ゾロだって困──」
そこでサンジは黙ったが、ゾロは投げ出された台詞を受け継ぐ。
「確かに困るだろうが…俺はお前に、重荷を背負わせたくない」
腕の回復を諦めてはいない。しかし事故の事でサンジをずっと縛りつけるのはまた別問題だ。
「俺は…俺は、責任感とか義務感でゾロといるんじゃねえよ」
知っている。それは知っているのだ、痛切に。
故に、これ以上サンジに僅かな負担も感じさせたくない。
「面倒かけたくないってんなら、ヘルパーでも雇えばいいさ。けど、俺はゾロの傍にいてえから…それも迷惑か?」
手が反射的に動かないのは良かったかもしれない。
きっと、溢れる愛しさを堪えきれずにサンジを抱きしめて離さなかっただろう。
「──迷惑だ」
ゾロの一言にサンジが息を呑む。「お前がどう思ってるにせよ…俺が、お前に負い目を感じなくちゃならない。…分かるか?」
どうか。どうか、これ以上酷い事を言う前に。与える傷が最も小さくて済むように。
「……分かった」
サンジは喉の奥から声を搾り出す。「けど、ヘルパーとかだってそんなすぐには」
「ロビンに連絡して手配を頼んでおいた」
「ロビンちゃんに…?ずいぶん手回しのいい事で」
サンジはハッと渇いた笑みを見せた。「ホントに俺はお払い箱か」
「…世話になった」
「それ、もう聞いたぜ?」
ソファから立ち、サンジはゾロに背を向けた。「そんじゃ。サヨナラ」
重い足音、そして玄関のドアが開いて閉じる音。
ゾロは身じろぎもしないで、それを聞いていた。しばらくして緩慢な動作で湯呑に手を伸ばす。小刻みに震え、掴んだと思ったら力が入りきらず床に落ちた。冷めているので足にかかっても火傷はしない。零れたお茶など構わずに自分の手を眺める。
事故直後よりはまだ動くとはいえ、あまりにもどかしい。やはり自分は死ぬまでピアノを弾けないのだろうか。過去にピアノから離れていた時期はあったが、精神的に弾けなくなったのとは全く違うのだ。今はどれほど弾きたくとも指が動いてくれない。
カチャ、という音にゾロはハッとする。
開けっ放しの居間の扉から現れた黒髪に、サンジではないと分かっていたのに幾らか落胆を覚えた。
「退院おめでとう」
「めでたいかどうかな…色々厄介かけてすまない」
「仕事だわ」
こともなげにロビンは肩を竦めた。
「クビになったピアニストにいつまでも付き合う義理はないだろ」
「あら、契約はまだ残ってるわよ」
「しかし俺は…」
「ウィーンであなたを拾い上げた時」
ロビンはゾロが反論するのを遮った。「正直復活は無理だろうって社長に言われたわ。だけどあなたは見事なくらい推測を裏切ってくれた」
「あの時とは状況が違う」
「そうね。契約期限が切れるまでには何とかしてほしいものだわ。できなければ、それはそれでしょうがないし」
「元に戻るのが0パーセントに近い確率でも…ゼロじゃない、と?」
「それはあなたが決める事よ」
ロビンはふと辺りを見回した。「ところであのコックさんはいないのね」
「帰った。二度とここには来ないだろう」
「彼なら、どんなに時間がかかっても一緒に努力してくれるでしょうに。疎ましくなったとかじゃないんでしょう」
疎ましい?サンジがゾロをそう思うことがあったとしても、その逆などありえない。入院中だって、サンジの存在には如何ほど救われたか。
「だからこそだ。ただでさえ、俺がピアノを弾けなくなったことで、あいつは自分を責めてるだろう。これ以上引き摺りまわしたくない」
サンジはまだ若いのだし未来もある。レストラン勤めをして行く行くは自分の店を持ったり、結婚して家庭を築いたりして、ごく普通の幸せな人生を送るべきだろう。いつピアニストとして復帰できるかも分からずその可能性も皆無に近い男に拘束されていい筈がなかった。
「それで三行半?年下の恋人に対する配慮なのかしらね。彼が納得したならいいけれど」
「納得はしてなくても、そのうち分かる。子供じゃねえんだ」
「私は物分りの良い大人は好きではないわ」
ロビンが皮の鞄からいくつか書類を出し、テーブルに並べた。「自分がそうだから。…ヘルパーは一応食事だけってことになってるけど、それで良かったわよね」
「ああ。他の事は自分でできるだけしたい。どうせリハビリしかやることもないから、訓練の一種と思うさ」
「前向きなのか捨て鉢なのかよく分からない人ね」
冷やかしめいたロビンの口調に、ゾロは苦笑して応じた。
「お前の酔狂さも大概だろ。何で俺にここまで固執する?」
「さあ、何故かしら。あなたは十八歳の時コンクールで戦った相手のことなんて覚えてないでしょう」
言われてロビンの顔を改めて見る。「いいのよ、無理に思い出そうとしなくても。どんなに努力しても環境に恵まれても、プロとしてやっていける人間は一握りだわ。それを叩きつけられたあの日のあなたの演奏を、私が忘れないだけ」
正直記憶の端にも残っていなかった。その頃は前しか見ていなかったのだ。振り返る余裕もなく、進むことしか頭になかった。
「あなたのピアノをまた聴きたいと思ってるのは、少なくともあのコックさん一人じゃないということは覚えておいてちょうだい」
ロビンが帰った後、ゾロはピアノの側に行った。
蓋を開けるのにも苦心惨憺である。それにしても、さぞ埃を被っているだろうと思っていたのだが…。ゾロはやや訝しげな顔になったが、習慣になっている位置へと指をのろのろと置いた。
当然弾けはしない。まるで他人の指だった。曲一つ取っても頭というよりは指で感覚で弾いてきた。十年以上やってきたことが無に帰したに等しい。まだそうと決まったわけではないにしても、反応の鈍さはどうしようもない。
焦燥とも怒りとも苛立ちとも言えぬ、空虚さがじわり押し寄せる。
ゾロは端然と座り、鍵盤を眺めていた。

 

リハビリは毎日したが、家にいるとどうしても運動不足だし行動範囲が狭くなる。焦っても事態は改善されないのだ。のんびり散歩がてら、駅前まで歩いて行きCDや本を買った。平日の昼間だから、レジで多少手間取ってもまだ迷惑にはならなかっただろう。
家の近くまで帰って来た時、ゾロは耳をついたピアノの音に立ち止まる。この辺りではピアノを鳴らすような家はないのに。それは確かめるまでもなく、自宅からだ。防音工事をする予定がずれ込んでいて結局していない。
かけていた鍵は開けられていて、ゾロはなるべく足音を殺して玄関を上がった。
不器用な、たどたどしい音だ。無論現在のゾロよりはよほど弾けているが、ピアノを習っている小学生でももっと上手いだろう、それでも。胸を打つ音楽は技術ばかりではない。
稀に間違いながらも繰返される単純な優しいメロディを、ゾロは廊下でじっと聴いていた。
なあ、サンジ──お前いつから練習してたんだ…?
他の家具は埃が積もってたのに、ピアノだけは妙に綺麗だったから気にはなっていたが。まさか、な。
入院中はサンジに鍵を預けていたから、何度かはここに泊まっていたのだろうか。それともゾロの着替えなどを持ってくるついでに?
「参ったな…」
独り言が聞こえたのかどうか、音は不意に止まった。部屋に入ると、慌しく蓋を閉めるサンジの姿がある。閉めてしまうと彼は、何事もなかったかのようにテーブルに置いてあった鍵を示した。
「鍵…持ってたから返そうと思って」
「ああ。わざわざすまん」
「勝手に入って悪かったけど。あんたが帰る頃には出て行くつもりだったんだ」
ぼそぼそ言い訳がましく呟き、じゃ、と最後に加えてゾロの横を通り過ぎる。
「…ピアノ、始めるのか?」
「冗談。暇潰しにやってみただけだって。簡単な練習曲でも難しいもんだな」
「そうか。やる気があるならピアノを譲ろうかとも思ったが…。マンションだと置く場所にも困るな」
言い終えるが早いか、キッと鋭くサンジはゾロを睨んだ。
「あんた、もう諦めちまったのか」
「え?」
「そんなあっさり手離すんじゃねえよ。そりゃ弾けないのに置いてたって辛いかもしんねえけど、もうちょっとくらい足掻いて…踏ん張ってもいいだろうがよ」
悔しそうに奥歯を噛むサンジに、真剣に怒ってくれている彼に触れたいと思う気持ちをどうすれば抑えられるのだろう。
絶対彼を引き止められはしないのに、ここにいて欲しいと激しく願う。
ゾロが黙っているとその沈黙をどう取ったのか、サンジは大きく息を吐いた。
「…俺が、あんたにアレコレ言う権利なんてねえよな。忘れてくれ」
目を逸らして、サンジはバタバタと走り去った。


なす術がない。
唯一ゾロにできるのは、サンジに対して何もしないという選択のみだった。


もしも。自分がピアノを弾けるようになったら一度は彼に聴いてほしいと思うが、それはサンジを取り戻す為と言うより証明を立てたいからだ。
自分について、少しの蟠りも残す事はないのだと。

 



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