ノクターン 10

 






店に入ると涼しいが、外を歩いて来ただけですっかり汗ばんでいる。然程汗かきでなくとも、湿気を含んだ風に纏わりつかれ肌もべたっとした感じだった。だが、朝晩の空気や虫の声にそろそろ秋の気配が出始めて夏が押し遣られる季節になると、この暑さもほんのちょっぴり名残惜しくなるのだから不思議なものだ。
冷房が入っていてもどうしても火を扱うし慌しさを伴って暑くなるのは、毎度の事だ。首筋に張りついた髪を手でバサバサと払ってサンジは、後ろで一つに結えた。不精でもお洒落でもなく、何となく伸びてしまった髪は仕事中にはゴムで括る習慣がついている…いつからか。
「おはようございまーす」
厨房へ入ると後輩たちが挨拶をしてくるのに、おはようと返す。
「今日も暑いから、コールドポタージュを沢山作っとこう」
「はい」
昔は指示されて動くばかりだったのが、最近はサンジが指示する立場になってきている。ベテランのコックにはもちろん従うものの、任せられる事が随分増えた。同僚や先輩にはそこまで動かなくていいとよく言われるが、人に指図するばかりでなくやはり料理に多く携わっていたいのだ。
口コミで広がった客は増えはしても減る事はなく、店は繁盛している。オーナーは質は落としたくないと言って、店舗を大きくしたり増やす予定はないらしかったが週末の夜は常に客が多く並ぶので、どうしたものかとある意味贅沢な悩みを抱えていた。今日は平日だから、いつもに比べれば忙しさも緩和されたが。
"CLOSED"の札をかけてからも、暫し後片付けに追われる。
「お疲れ様」
とサンジがコックコートのボタンに手をかける頃には、店内には数人しか残っていない。
「お疲れ様でした。あ、そうだ」
新人の女の子が手を叩く。コック見習いとしては日が浅いが、入れ替わりの激しい中で長くいてくれるだろうと思わせる、若い割りにしっかりした娘だ。「ごめんなさい、サンジさん。郵便が来てたから渡してくれって言われてたのにうっかり…」
「俺に?」
渡された細長い真っ白な封筒を見れば、宛先はここの住所だが店名にサンジの名前が書き添えてある。裏返したが差出人の名はなかった。女の子が首を傾げて、
「個人的な郵便が来るなんて変ですよね。お友達ならサンジさんのお家に出せばいいのに」
「俺、前に引越したんだ」以前のマンションを越してから、一年…いや、二年は過ぎていた。「まあ、友達には全部連絡したとは思うけど」
言いつつ、封を切る。手紙にしては固いのでダイレクトメールの類ではないかと気軽に。事実、入っていたのは手紙ではなかった。
「わー、コンサートのチケットですよね?それもクラシックの。もしかしてデートのお誘いなんじゃないですか」
年相応に、はしゃぐ女の子にサンジは手の中のチケットを握り潰して、笑顔になる。
「デートなら君としたいよ。音楽は好き?」
「あたし、クラシックって駄目なんですよ。寝ちゃうし」
「そうだな、俺もちっとも興味はなかったよ」
「だけどデートなんて、嘘ばっかり。サンジさん、店中の女の子どころかお客さんにも言ってるでしょう」
サンジはオーバーアクションで嘆いてみせた。
「嘘じゃねえよ〜、振られ続けなんだ。可哀想だろ。慰めて?」
「だって本気じゃないのに、皆相手になんてしないですよ」
邪気なく笑って、女の子は帰り支度を始めた。「それじゃお疲れ様です」
「ああ、明日も宜しく」
本気じゃない、か。
そうだ、自分の本気は過去に置いてきてしまった。
しわくちゃになったチケットを広げて、眺める。我知らず眉根を寄せて。
──いったい何だって言うんだ。
冗談にしては性質が悪い。チケットには、日付と会場の名称と演奏項目が印刷してあった。と言っても至って簡素なもので、代表的な曲目が二つだけ。バッハの協奏曲、ラフマニノフのプレリュードといった字面は申し訳程度に追うが…。
これに来いと?誰が?ゾロが?
二年も口に出していないその名前は、上手く唇に乗らなかった。
二年も会っていないのに、動揺している自分が悔しかった。
どうしてこんなものを自分に送ってくるのだろう。
一緒にコンサートに行ってほしいとでも?
まさか、弾くんじゃないだろうな。二年なんて、短い。多少回復していたとしても昔と同じには弾けないだろうが、健気に頑張っているところでも見せたいのか。
何にしろ、今更だ。終わってしまったことを穿りかえしたって、どうしようもない。
チケットを鞄へと乱雑に捩じ込んだが、破り捨てることもできないのも自覚していてサンジは嘆息した。

 


異国的なデザインの街灯が並ぶ小道を歩いていくと、広場があって煉瓦色をしたホールの入口が高い木々の間から覗いている。幸か不幸かちょうど仕事の時間とはかち合わず、気は進まなかったが何をしていても落ち着かないのが鬱陶しくて結局出かけて来てしまった。
御影石の柱が上品な雰囲気のエントランスでクシャクシャのチケットを見せると、スタッフが丁寧な仕草でチェックする。御席までご案内致しましょうかと聞かれたがそれには及ばないと断り、ロビーへと進んだ。コンサートは始まっているのだろう、周囲は閑散としている。
適当な扉を選んで、薄暗い会場へ足を踏み入れた。席の番号は決まっていたので、渡されたパンフレットを調べてみればえらくステージに近い。躊躇いがちに席へと近づいていくと、拍手が沸き起こった。ステージに目をやればヴァイオン奏者が出てきたところである。そしてもう一人。タキシード姿の男が歩いてきて、ピアノの前でお辞儀をした。
ゾロだ。遠目だが、痩せたと感じる。輪郭も一層引き締まり線が鋭くなっていた。
その彼が顔を上げた刹那、目が合った。──気がした。
だがゾロの表情に変化はなく、向きを変えて椅子に座る。
(弾けるのか…?)
立ち尽くしていると横で邪魔そうに咳払いをされたので、サンジは慌てて番号を探して席についた。
弦楽器特有の、微妙に軋んだような音で演奏が始まる。ヴァイオリンがメインなのか、ピアノは鳴らない。独奏なら出てくる必要はないだろうが、不安になった。本来なら弾かなければならない所を過ぎているのでは…。
思った端から、ポツポツと聴こえる音。主役ではないから、決して目立つものではなかったが。サンジはクラシックに詳しくはないし、曲名など知らなかった。だから、間違っていたり遅れていても判断はできないが、耳障りなずれなどはなかったとは思う。
それよりもゾロがピアノを弾いている、その図が未だ現実味がなく呆然としていた。
細く余韻を残してヴァイオリンの音色が消えると、拍手が起こったがじきに止む。次のプログラムがあるのだ。ヴァイオリニストが舞台の袖へと去っても、ゾロは座っていた。
やや、間を置いて。
流れ出すその曲にサンジは動けず、目を見開いて舞台を凝視する。
射抜かれた。容赦もなく。

初めて彼の音に抱きすくめられた瞬間に戻ってしまった。重ねた月日が、どこかへ飛んでしまった。
鍵盤を、叩くと言うよりは撫でるように。物悲しく、優しく、暖かく。
胸に入り込んで強く心を捉える美しい旋律は、ノクターン。

卑怯…だろう?これは…


一気に押し寄せた涙の波は止まってくれなかった。人目も憚らず嗚咽を漏らす度、頬から顎を伝って落ちた。ゾロが入院してる時も、別れの時でさえ泣いたりはしなかったのに。
(何て…)
何て男だろう。あの状況からどういう無茶をしたら、こんな奇跡が起こせるのか。到底語りつくせない凄まじい訓練をしたに違いなのに、そんな苦労は微塵も感じさせないなんて。
自分は素人だけれど、ゾロのピアノに関しては誰にも引けは取らない。彼の音に、彼に惹かれたこの気持ちは。
ゾロの演奏が終わり、休憩時間になってサンジは漸う立ち上がった。俯けば長い前髪は泣き顔を隠してくれて助かった。トイレに入って、バシャバシャと顔を洗う。目も鼻も赤いが、仕方あるまい。廊下に出ると後半が始まるのか客が揃って入っていく。サンジはその流れには入らず、エントランスに向かった。
「来てくれて、ありがとう」
前より髪の伸びたロビンが、壁に凭れている。
「変わらねェな、ロビンちゃん。ロングヘアも素敵だ」
「あら、あなたも似合ってるわよ」
「チケットは…君が送ってくれたのかい?」
「お節介でごめんなさいね。一度会って、どんな形にせよ結論を出してもらいたかったのよ。どう動くかは勿論あなたたちの自由」
「だって俺たちはもう……」
「私に説明しなくていいから、彼と直接話してもらえる?」
ロビンは関係者以外立ち入り禁止とある立て札と張られた鎖をよけて、どうぞ、と奥を指し示す。サンジは狭い通路を歩いていった。控室の扉が並んでいて、ゾロの名前が書かれたプレートのあるドアをノックすると、ドアの影にいたのかというぐらい早く開いた。
「…ゾ」
間近に立っているゾロを見ると、喉の奥に絡んで声がなかなか出てこない。
「久しぶりだな」
ゾロの懐かしむような視線が居た堪れない。
「──復帰オメデトウ」
「ありがとう。…髪、伸びたな。驚いた」
「切る暇ってか、余裕なかったし」
「会わなくなって、二年以上は経つもんな。そりゃ、伸びるか」
「ていうかさ、驚いたのはこっちだぜ。尋常じゃねえ回復力だよ」
「ああ、完全に元に戻ったわけでもないんだが…あんまり長い曲はまだ弾けなくてな」
「そうか…けど今の調子で頑張れば、そのうちいけるだろ」
サンジにはこれ以上かける言葉は、然してないように思えた。
何よりの証を目の当たりにして。
自分がいなくたって、ゾロは全然大丈夫なのだ。一人で、ここまで這い上がってこれたのだから。
「……お前のおかげだ」
「何が?ずっと会ってなかったのにさ。あんたには俺なんか要らないってのはもう充分…」
「お前には俺に対して何の拘りも持って欲しくなかったから、必死でやってきた」
「それは分かったって。あん時別れて正解だったんだろうよ。あんたは大人だから、離れた後も俺が責任を感じないようにしてくれて…」
「少し違うな」
ゾロは、バツが悪そうに。「俺は、お前に何の借りもない状態へと戻したかったんだ。そうすれば、また一から始められるだろ」
「な…ん…?」
「下世話に分かり易く言えば、スタートラインから口説き直そうと思った」
こめかみの辺りを軽く掻くゾロに、サンジは金魚みたいにあんぐりと口を開いた。「だが、やっとの思いで曲が弾けるようになったらお前は引越しちまってて」
「……アンタの家の前、通る度に未練がましく止まっちまうからな。俺なりに整理つけるつもりで──何か、虚しくなってきた…負担かけたくないって、そういう意味かよ?」
「怒るな。お前に責任を感じさせたくないのは本心だったんだ。だから、いつか必ず弾いてやると決心もしたさ」
「怒るっつうか…したたかさに呆れるっつうか…」
それは勿論、常人離れした努力があっただろう。増してや、耐え得る彼の精神と体力の強靭さは言わずもがなだ。
傲慢で潔いのはおそらく、幾つになっても変わらない彼の本質である。
つくづく二年前のあの日の、自分の浅はかさが恨めしくなった。共に生きたいというのは単なる我侭でゾロの迷惑にしかならないのだと、ゾロのことを考えるなら別れるのが最良の方法なのだとサンジが己に言い聞かせて悩み苦しんでいる間に、ゾロはまず彼の言うスタートラインへ立つ事だけをまっすぐ見定めて黙々とリハビリをこなしていたのだ。
全くこいつは…なんて野郎だよ…。
訪れた安堵だか放心だかに任せて脱力するサンジを、ゾロがやんわり抱きとめた。

 

* * *

 

時計を見たゾロは、鍵盤から手を下ろして立ち上がると窓を開ける。
この季節、夜風は冷たい程だ。天井の白っぽい照明を消すと、部屋を間接的に照らすアンティーク調のランプが穏やかな光を主張する。冷えた空気を吸い込んでからゾロは、窓を閉めてカーテンを引いた。
「飲むか?晩酌代わりに」
ブランデーを落とした紅茶を、パジャマ姿のサンジが持ってくる。
サンジがゾロの家に住み出してから一週間が経っていた。居間以外は殺風景だった家が、様々な道具が置かれたキッチンを始め全体的に賑やかになっている。サンジにも仕事はあって生活サイクルが必ずしも合うとは言えない同居人だが、それもいい。一人なら決して味わえない幸せを、ゾロはしみじみ楽しんでいた。
暖かいカップを受け取り、紅茶を口に含む。喉から胃にかけて広がる熱さは快い。
「お前は、まだ寝ないのか」
「明日休みだし。折角ここに来て最初の休日なんだから、ゆっくりしてえもん」
「そうだな」
要するに誘ってるのかと彼の腰を抱いてソファに倒れ込もうとするとサンジは、そうじゃなくてさ、とゾロの鼻先に指を突きつけてストップをかける。
「弾けよ、可愛いハニーのために」
確信犯めいて、にっと笑うサンジにゾロも笑ってキスをひとつ、そして再びピアノの前に行った。緩やかに繊細な音を紡ぎ出すと、サンジもサイドチェアーを持ってきて隣に座る。


望まれるなら、いつまでだって奏でよう。
受け止めてくれる彼へ捧げよう、夜想曲を。

どんな愛の言葉でも伝えきれないこの想いをこめて。

 

fin

 



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