ノクターン 8

 




どれくらい経ったのだろう。暗いから夜なのは確かだ。
果てしなく長くここにいる気がしたが、せいぜい数時間ではなかろうか。
サンジは根付いてしまったみたいに、両手を組み合わせて座った長椅子から動かなかった。窓が開いていても風がないので空気すらその場で止まっているようだ。思考もほぼ止まっていた。空を見詰めるサンジの瞳は何を見るでもなく。
宙ぶらりんな状態に焦れてはいたが、早く過ぎて欲しくもない。
寧ろこの病院に運ばれて来た時同様、意識がなければいっそ楽だろうに。だがそんな事は考えてはならない。考える資格も自分にはない。
だからただ、ひたすらに待つ。
時の感覚は曖昧なままに、また数刻が過ぎた。動かなかった空間に、カツカツと廊下に響く足音が楔さながらに入った。表情のなかったサンジの目に光が戻る。
「遅くなったわ」
グレーのスーツに身を包んだロビンが近づいてくると、サンジは立ち上がった。
「ロビンちゃん──ごめ…」
「謝罪なんて私にしなくていいのよ。それよりも事態がどうなのか聞かせて」
凛とした口調には、狼狽しかけたサンジを鎮める効果があった。
「…電話でも話したけど、手術はまだ終わってない」
「あなたは大丈夫だったの?」
サンジはくしゃりと顔を歪めて頬と腕のガーゼを指差す。
「この通り、掠り傷さ。ゾロのおかげでね」
衝突が避けられないと判断した瞬間、彼はサンジを庇った。
「事故の原因は結局子供が飛び出したのを避けたせいね。警察にも行って後始末はしてきたから、その方は心配しないで。こっちの車はともかく、相手方はバンパーやボンネットの破損程度で怪我もないそうよ。その後、突っ込んだのがもう使われてないビルだったのは幸運なのかどうか分からないけれど、その辺りも保険で何とかなるでしょうし」
「そうだな、色々ありがとう」
「あなたにお礼を言われる筋ではないわ」
ロビンは腕時計をちらと見た。「結構遅いわよ。少し眠れば?手術が済んだら起こしてあげるから」
サンジはゆっくり首を振った。
自分は待たなければならない。待って、どんな結果であろうと見定めなければ。
ロビンもしつこくは言わず、近くにあった自動販売機でカップのコーヒーを二つ買うとサンジに一つ渡して促すように椅子に腰掛けた。
ブラックの苦味は、ぼんやりしていた頭を覚醒してくれる気がした。
事故は一瞬だが、その後が長いものだ。
ゾロの不注意ではないけれど、その子供を非難することもできない。サンジが責めたいのはどちらかと言えばゾロだった。身を挺して自分を守ったゾロを詰りたかった。無事に手術が成功したなら真っ先に。
気がついたサンジが次にゾロを見たのは、手術室に運ばれる血塗れの姿だ。出血が止まらないのか、随分と青褪めた……。
消灯時間を迎えた病院の暗い廊下にいるのが、未だ現ではないと信じたい。
不思議だと思う。
本当なら今頃は仕事を終えて、ゾロの家で彼のピアノを聴いてた筈なのに。

 

手術が済んだと看護婦より告げられた。
マスクを外しながら年配の医者がやってきて、淡々と報告をする。救急病院にとってはどんな事故や病気も仕事であるし日常である。いちいち愁嘆場を演じてはいられまい。
「命は助かりました。意識もあります。面会されますか?外傷としては右腕と肋骨の骨折です。これは治りますが、脳の血管と神経に損傷があり麻痺が残るかと…」
当分、もしかしたら一生言語や腕が不自由になるだろうと続ける医師の説明が終わるか終わらないかで、サンジは病室の扉を開けた。
白いベッドの枕元に行くと、頭をぐるりと包帯で巻かれたゾロが口を開いた。
「あ、あ」
「……!」
サンジに何か話そうとして言葉にならないゾロを見て、サンジはガクガクと膝が震え出すのを必死で押さえた。駄目だ、しっかりしなくては。最も辛いのは自分ではなく彼なのだ。
右腕はギブスをされていたので、ゾロの左手をそっと取る。
「…ごめんな、ゾロ」
適切ではない気がしたがどう話しかけるのが正しいのか、サンジには皆目見当がつかなかった。
自身でもちゃんと話せないのを即座に悟ったのだろう、ゾロは微妙に首を動かす。
「社長には連絡しておいたわ」
医師との話が済んだのだろう、ロビンも病室に入って来る。「起こってしまった事は仕方がないから。入院期間は約三ヵ月だそうよ。とにかく療養に専念することね」
ゾロはロビンを認めると体を起こしかけたが上手くいかず、サンジが支えた。
「はっきり言うわ。完全に回復するかどうかは医者にも保証できない。まずはその事実を認めてちょうだい、二人とも。それを踏まえて、リハビリに励むかどうかは当人次第だから」
ロビンが黒髪を翻して、部屋から出て行くのをサンジは追った。
「ロビンちゃん…」
「彼の傍にいてあげないの?いてほしいと思ってるんじゃないのかしら」
「……けど、俺のせいで」
「そんな事を言い出したら、帰国後にあなた達を会わせてしまった私の責任だわ」
「いや、それは違うよ。どうしたって会うときは会っちまっただろうし…」
「そうね。誰のせいとか原因を追求してもどうにもならないでしょう?今、するべき事を考えなさい」
サンジは来た時と同じく、小気味好くヒールを鳴らして去るロビンの後姿を見送った。
(するべきこと)
口の中で呟いて、サンジは病室を振り返る。
翌日から、時間が空けばサンジは病院に通った。完全看護制なので身の回りを世話する人間は不要だったが、仕事と自宅で過ごす以外はゾロの傍らにいた。
庇ってくれたから申し訳ないとか、罪の意識などではない。だがゾロがそれを分かっているかどうかは不明だ。それでも明らかに迷惑がったりはされない以上、サンジは来るのを止めないでおこうと決めていた。
ゾロは自棄になって暴れたり無気力になったりするでもなく、現実を受け入れたみたいだった。サンジが来ると微笑み、何とか名前を呼ぼうとした。動きの鈍い手をどうにかして上げようとした。サンジはその手を柔らかく包み色々と話し掛ける。
おはよう。夜は眠れてるか?喉は渇いてないか?天気がいいから外に出てみるか?雨だし本でも読むか?最近夜が暑いから、半袖のパジャマを持って来ようか?……
始終話している訳ではない。個室なので黙って寄り添っていることもある。たまにゾロの少し伸びた髪を撫で、たまに肩に頭を乗せて彼の体温を感じる。
ゾロもサンジに従っているばかりではなく、気が進まない時は意思を伝えようとしていたしサンジもそれを汲み取ろうとした。
ロビンは時折やってきて、ゾロの様子を見ては帰っていった。
ピアノがいつ再び弾けるか分からない、二度と弾けないかもしれない、そんなピアニストを事務所としては切り捨てるしかないだろう。サンジがそれについて訊ねようとすると、ロビンはタイミングを狙ったかの如く帰ってしまうので聞きそびれてはいたが。。
両手と言葉を除けば、ゾロは順調に回復していると言えた。下半身は殆ど大丈夫だったので歩行できたのも代謝を良くしただろう。元々体力もあり精神力も強いのだ。医者が驚いていた。
そしてサンジも驚かされたのは、折れた右腕の包帯が取れた頃。
朝、いつもの通りゾロの部屋に入っていつものようにおはようゾロと挨拶をかけたら、ゆっくりだがはっきりした言葉が返ってきた。
最初は、空耳か幻聴かと思った。
「サ…ンジ」
三ヵ月近く、聴きたいと思っていたからそのせいだと。
「サンジ」
記憶で夢の中で何度も何度も反芻していたから。
「──ゾロ…?話せるのか」
「…ああ…」
元通りにすらすらと話すとまではいかないが、たどたどしくはあっても意図した言葉が紡げるようになったのだ。誰が来るか分からないのにと考えつつも、サンジはゾロに抱きついてキスをした。
「…悔しい、な」
ゾロがポツリと漏らす。すぐに抱き返せないのが、と続けたいのはサンジも察することができた。
そう。相変わらず腕はろくに動かなかった。やはりその神経が一番ダメージを受けたのだと医師は言う。それでもこうして言葉が話せるようになったなら、腕についても希望もあるというものだ。だからリハビリは続けようなとゾロに言うと彼も素直に頷いた。そして、傍から見れば滑稽な程何回も互いの名を呼び合った。ごく当然だった事を突如失い、少しずつ取り戻す幸福は当人達にしか理解できない。
数週間後、退院を迎えるまでにゾロの言葉はどんどんと増えて会話も事故前と変わらないぐらいこなせるまでになった。サンジはそれがとても嬉しかったが、共につのり育つ不安からも目は背けられなかった。
──退院の日はロビンには一応連絡しておいたものの、仕事で夕方まで来られないということだった。タクシーでゾロと共に彼の家へと向かい、荷物を運び出してからサンジは鍵を取り出す。衣類などを持っていく必要があったので、鍵を預かっていたのだ。
窓を開け、空気の入れ替えをする。荷物の整理を終えて、湿気った茶葉を乾煎りしてからお茶を淹れた。時間をかけてなら物を持つ事もできなくはないが、熱いのでサンジが口元まで湯呑を運んだ。二口ほど啜ってゾロが顎を引いたので、テーブルにコトリと置く。
「久々の自宅はやっぱ寛ぐか?」
「そうだな…検診がないのがいい」
二人してちょっと笑う。病院は食事から就寝からすべて決められているから、自由な生活をしていたゾロにとっては窮屈だったのだろう。
「風呂でも入るか?洗い難かったら手伝うし」
サンジがシャツの袖を捲ると、ゾロはそれを制した。
「サンジ。話がある」
「…今じゃなくてもいいだろ?メシ食ってからでも」
「今でも遅過ぎたくらいだと、思ってる」
ゾロの回復を祈りながら喜びながら、サンジは同時に恐れてもいた。「世話になった…ありがとう。もう来なくていい」

いつか彼がこう言うだろうと、心のどこかで予測していたのだ。



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