ノクターン 6

 




国が違えば空気も違う。気候そのものも日本とは違うから当然だろうが。
ただ自分にとっては違いもさほどないとゾロは思う。だいたい風や空気の違いを実感できるほど外へ出ていない。観光に来たのではないからホテルとホールを車で往復するのが日常における行動の殆どである。
「ロロノア。おい、ロロノア」
何度か話しかけられて顔を上げると、今回一緒にアメリカに来ているMフィルハーモニーの団員だった。以前にも顔を合わせており、ゲスト的な立場のゾロにも色々細かい気配りをしてくれる。「疲れてるのか?まだ演奏は残ってるぞ」
「ああ、分かってる」
大きな公演は久しぶりで、しかも他国だ。疲れていないとは言えないけれど。何となく意気が上がらないのはそれだけではなかった。ゾロはもともと環境に精神面を左右される性質ではない。外国に長く暮らした時期もあったのだから。
疲労ではなく、空虚さを噛み締めているだけだ。聴いて欲しい人間の存在が傍にあるのとないのでは、こうも違うものだったろうか。鍵盤に手を置けば経験と手腕からそれなりの水準はクリアできる。だが、曲を弾き終えた時に意図せず彼のことを思い浮かべてしまうのはどうにも止めようがない。ひとつひとつの音すら零さず飲み込んで消化するように、聴き入ってくれた彼。独奏の時にノクターンを弾くプログラムになっていたから、尚更だった。
譜面は一応置いてはあるが、あくまでもスタイル上だ。指を滑らせ、強く、弱く。最後の音まで疎かにはせず。
仕事だ。プロとして手は抜かない。
拍手を背に、ゾロは舞台の袖へと向かった。
「まあ、及第かしらね」
ロビンが恰も義理っぽくパチパチと拍手をしてみせる。
「そりゃどうも。相変わらず厳しいこった」
「『不遇のピアニスト、新たなる躍進』とかいう音楽雑誌の記事が予想できるわ」
「なら問題はないだろ」
「そうね。ただあなたらしくない演奏だというだけだから殆どの人は違いには気づかないでしょうし。まるで牙をなくした野獣みたいだったわ」
「俺の弾き方は普段そんなに荒っぽいか」
ゾロが苦笑するとロビンは小さく首を振った。
「そういう意味じゃないわよ。とにかくお疲れ様。今日で公演は終わりだから、あとは皆で帰るだけね。社長が帰国したらお祝いだって待ち構えているわよ」
日本に……。今のゾロにとっては帰国イコールサンジに会えるということで、それは本当に待ち望んでいたことだ。出発の頃は自分と会うのを拒んでいたサンジは自分に会ってくれるだろうか。彼との付き合いはとても短い。すっかり忘れられても仕方ないくらいに。
一抹の懸念はしかしすぐに消し飛ぶ。
あいつに会う為に、あいつがいるから、一刻でも早く日本へ帰りたい。
話はそこからだ。サンジの気持ちは分からないが、ゾロには彼は忘れられる存在では無論ない。忘れる気もさらさらない。彼がいなければ、日本でもアメリカでもフランスでも──どこにいようと同じなのだ。ピアノという媒体があってもなくても、自分は彼が必要なのだと離れてみて再認識をした。束の間の、熱に浮かされての感情ではないと。
「アンコールよ。行ってらっしゃい」
ロビンの声で我に返り、ゾロは緩めていたネクタイを締め直した。


 

皿が派手に破片を散らして割れた。
「大丈夫かよ、サンジ」
先輩のコックがサンジの肩を叩いた。「お前、どうも最近ぼーっとしてるよな。店もまあ暇とは言えないけどさ、頼めばちょっとぐらいは休ませてもらえると思うぜ。お前、オーナーのお気に入りだから」
「いや平気…つっ」
思ったよりも尖っていた皿の欠片に触れて右手の薬指に痛みが走った。先から血が伝う。
「平気そうでもないぜ。おい、手当てして来い。今日さえ乗り切れば明日は定休日だから、今夜だけ頑張れよ」
「はい」
ぼそりと応じて、備え付けてある救急箱から止血剤とガーゼを取り出した。割れた食器で怪我をするなんて新入りじゃあるまいしと嘆息する。
先輩の言う通り、少しでも休んだ方がいいのかもしれない。
だが空白の時間を持て余すのは辛い。仕事をしていればその間は気も紛れるのに。一人になったら、ますますゾロの事を考えてしまうと分かっていた。
アメリカでの公演は無事に終わったのか。
いつ帰ってくるんだろう。
もう帰ってきてるだろうか。
帰って来てるなら、食事はしっかり摂ってるかな。
とりとめなく、想いが渦巻く。
馬鹿みたいだ、まったく。会わずにおこうと決めたのはサンジ自身なのに。
唯一の連絡手段であった、携帯電話も無意味になっていた。
着信がないかメールが入ってないかと間を置かずチェックしてしまう自分が嫌で、我慢できずに連絡してしまいそうな自分が情けなくてたまらない。苛立って投げつけた時に壊れ、いい切欠だと番号から何から新しくすることにした。
だからゾロからは連絡が取りようもない。これで、何もなかったことにしてしまえればいいのに。出会わなかったことにしてしまえれば。本来ならピアノやあんな年上の男など、自分の人生にはこれっぽっちも関わりがある筈はなかったのだ。なくたって何の支障もないだろう。
きつめにテープを巻いて、サンジは厨房の中心へと戻った。まだディナー準備の途中だ。閉店まで、ここは戦場になる。
先輩がフライパンを揺すりつつ、話しかけてきた。
「具合はどうだ?」
「大丈夫。ちょっと刺さっただけだから」
「無理すんなよ。まあ、今夜は貸切でコースも決まってるしイレギュラーな飛び入りはないと思うけどな。特にメニューの変更もなかったから」
「貸切なんて、結婚式か何かかな」
サンジも、いつもの手順でオードブルにソースをかけていく。
「や、祝賀パーティか何からしいぜ。マスコミの取材は断るとかって言ってたから、芸能人じゃないのか。ウチみたいな店にタレントが来るのも珍しいけど」
へえ、と頷きながら、サンジは手を早めた。開店時間まではそう猶予がなかったから。
時はすぐに経ち、来客を告げるドアベルがカララン、と涼しげに鳴った。
賑やかに入ってくる大勢の客をウェイターがセッティングされた席に一人一人案内をする。厨房は忙しさに火がついた。
ここはフランクな洋食の店だが、きちんとしたコースディナーの注文も受付けている。前菜、スープ、魚料理、肉料理、サラダ、パン、デザート、コーヒーに至るまで。
賑やかな談笑も店の方から聞こえて、そう堅苦しい会ではなかったようだ。デザートになった頃、客が呼んでいると言われてサンジは包丁を置いた。三番テーブルです、とウェイターに聞かされ仄明るい店内を進んでいく。
「美味しい料理だったから、彼がお礼を言いたいそうなの」
その女性が立ち上がる前から、ロビンだと分かっていた。そしてかっちりしたスーツで隣に座っている萌黄の髪の男性も振り向く前から。
「やっぱり…店の名前に聞き覚えがあると思ったんだ」
ゾロはコックコートのサンジを眩しそうに目を細めて眺める。「やっと会えたな」
サンジは一呼吸おいてから口を開いた。
「お客様、料理がお気に召したそうで。嬉しいです。ありがとうございます。どうぞ最後までお楽しみください」
機械的な笑顔と形式的な受け答えに、ゾロが表情を固くする。サンジは深くお辞儀をして、くるりと向きを変えた。
動揺も見せない背中を、ゾロはじっと見送っていたが彼が厨房に戻ってしまうとその視線をロビンへと落とす。
「偶然とは思えないな。ロビン、お前だろ」
「あら。評判のいいお店があったから、選んだだけよ」
ロビンは眉一つ動かさずデザートのスフレをフォークでつつく。「舞台設定をするのは簡単。後は、あなた次第だと思うわ」
「…二次会は抜けていいか」
「主役の一人であるあなたが抜けたら社長はいい顔しないでしょうけれど、スポンサーもいるからあからさまに怒ったりはしないわよ。あっちで飲んでるし、今のうちなら分からないんじゃない?」
「ああ。感謝する」
そっと席を立ち、ゾロは出口へと急いだ。
勤めている店も分かったのだから日を改めて来てもいいようなものだが、今夜を逃しては駄目だと思った。ひと月以上も会うのを堪えたのだ。
外に出れば通りに人気はない。従業員用の出入口は不明だが…ゾロは建物の影に入り少し待った。やがて、こつこつと早足の靴音。
彼が通り過ぎる前に姿を現すと、サンジが息を呑んだ。
「…お客様、何か?」
「店を出ても客呼ばわりとは参ったな」
ゾロはサンジの正面に立ち、腕を組む。「本当に、忘れちまったのか?」
「……」
「連絡しようにも、出ない。終いにゃ携帯は完全に繋がらなくなる。なあ、会いたくないならそれでもいい。だが、理由を…教えてくれ」
「あんたって、傲慢だな」
サンジがハンと嘲笑めいたものを見せた。「普通こんだけ避けられたら、諦めるぜ?引き際が悪い男はもてねえよ」
「茶化すなよ。そんな話をしてるんじゃない」
「おー、怖い顔。あのな、理由なんていうほど大したモンねえから。俺、生のピアノとかがちょっともの珍しくてさ、それだけなのにホモに襲われてこりゃヤバイって思ったんだ。つまり付き纏われると迷惑ってわけ。だから携帯も変えた。アンタがアメリカに行ったのだって、ああこれで縁が切れたラッキーって喜んでたのによ。いい加減にしてくんねえ?あんまりしつこくするんなら、マジで店辞めるか警察行かなきゃだ。んな事になったら、お互い後味悪ィだろ」
息継ぐ間もなく語るサンジの言葉をゾロは無表情で聞いていた。彼が用意した台詞を終わるまでは、聞いてやろうと思った。
ゾロが黙っているので、サンジはひょいと肩を竦める。
「分かったんなら通してくれよ、有名ピアニスト様」
斜に構え、決して目線は合わせずに。 横を通り過ぎるサンジに、ゾロは静かに言った。
「真実味がないな。嘘つく時は、相手の目を見ろよ。サンジ」
ピクとサンジの肩が揺れて足が止まったのを皮切りに、背後から柔らかく彼を抱きしめた。逃げたいなら逃げればいい。触れられるのも嫌なら、抵抗して詰ればいい。
「──会いたかった」
煙草の匂いがする金髪に頬を寄せる。彼は刹那身を強張らせたが、徐々に徐々に力を抜いた。
「畜生…ずるいよなあ」
回されたゾロの腕にゆっくり手を添える。「たった一言で全部片付けやがって」
怒ったような声色のサンジを、ゾロは自分の方へと向かせた。
「全部片付けようとしていたのはお前の方だろ?」
「だって俺、ゾロに厄介かけたくねえからさ。苦労して忘れようとしてんのに、アンタときたら人の都合なんてお構いなしだ」
「悪いな。俺に惚れられたのが運の尽きだと思ってくれ」
サンジがぽかんとしているので、ゾロは念を押す。「好きだ。まずそう言うべきだったな。…順番を間違えたのも、謝っておく」
もう歯止めなどかけない。
ピアニストとしての再スタートは切っても、他のことには二度と深入りしようとは思わなかったのに、サンジはゾロが作り固めた筈の壁など露ほども感じないようにすとんと心の中に入ってきてしまった。そして何より自分が彼には隣にいてほしい。こんな想いを抱くのはサンジしかいない。
「……ホントずるい大人だな」
口調は非難がましいが、裏腹にサンジはゾロに身を預ける。「俺の方が、よっぽど会いたかったんだぜ」
小さく言う彼がたまらなく愛しくなり、金髪を優しく梳いてキスをした。
詮無い望みを抱きしめる腕にこめて、キスをした。
この至福の時間が止まるといい。ほんのひと時だけでも。

 



[←] [→] [TOP]

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送