ノクターン 5

 




長めの曲を弾き終えたゾロが会釈をすると拍手が沸き起こった。
今日はこの会場での最終公演だ。八割方席は埋まっていて、さほど大手でもない楽団にとっては成功と言って良かった。次は他の奏者の演奏になるのでゾロは下手まで歩いて幕の内部に入る。ベルガーが両手を大きく広げて出迎えた。
「ゾロ、良かったぞ」
やや不自然なイントネーションではあるが、ゾロとしばらく一緒にいたせいもありかなり日本語も話せるようになった(そのぶんゾロは甘えてしまいドイツ語をなかなか覚えられなかったが)。元々が日本贔屓なのである。彼はこの楽団の経営者でもありゾロの恩人といってもいいだろうか。
次に独奏をするヴァイオリニストが二言三言、ゾロに言葉をかけ舞台へと出て行った。
「"初めてとは思えない度胸の良さ"だと」
にやりと目元の皺をますます深くさせてベルガーがゾロの肩を叩いた。何度か練習には参加したが、ウィーンで公の舞台に出るのは今回が初めてだった。緊張しない訳ではなかったが、ゾロは本番の緊迫感が好きだ。失敗の許されない、真剣勝負は何より己を磨ける気がした。 「サムライの心意気というやつだね」
「いや、日本人でもそんな言葉使わねェよ」
ゾロもちょっと笑って返す。
ゾロは他人と積極的にコミュニケーションを取るタイプではないが、子供のないベルガーが自分を息子同然に思っているのは何となく分かっていた。部屋が見つかるまで彼の家に住ませてもらったのだが、妻とは早くに別れたというベルガーは一人暮らしで、ずっとうちで暮らしても構わないのにと半ば本気で言っていた程だ。
「ベルガー!」
突如響き渡る声に皆がそちらを振り向いた。
小太りのその中年男はゾロも知っている。ある楽器屋の店長で、彼の店に入ったのがこの楽団に入るきっかけになった。しかし店長は何やら激昂しておりゾロの存在など目にも入らないようで、つかつかベルガーの前まで歩いてきたかと思うとドイツ語でまくし立て始めた。内容は勿論分からないが良くない雰囲気なのは誰が見ても明らかだ。ベルガーは宥めていたが、ひどく罵倒されているのか険しい顔である。警備員が現れると、店長は憤怒が収まらない様子だったが廊下へと出て行ってしまった。
「ベルガー。何か揉め事でも?」
ゾロが訊ねたが、ベルガーはゆるりとした仕草で首を振った。
「気にしなくていい…ゾロは最後の演奏が残ってるだろう。そっちに集中してくれ」
経営者としては当然の言葉だった。彼がコンサートの為に苦労して奔走しているのはゾロも知っているのでそれ以上は追求せず。最後の曲を演奏するべく、襟元を調えて再び舞台へ上がった。
胸騒ぎがしたのだろうか。
その夜無事に公演と打ち上げパーティも終わり、自分のアパートに帰ってのんびりしても良かったのに、ゾロの足はベルガーの家へと向いていた。公演の時からそうだったが、何かがいつもとはやはり違っていて──そうだ、次の予定なりを必ずゾロに直接言うベルガーが疲れたのかパーティ始まって早々に引き上げたから、それが気になった。押しかけてはかえって休息の邪魔になるかもしれないが、と思いながらもゾロはノックをする。帰っている筈なのに、返答はない。中で微かな、しかし確実に不穏な物音がしてゾロは考える間もなく踏み込んでいた。音楽家の耳は鋭いのだ。
ゾロは音の聞こえた居間へと走った。一時暮らしていたのだから勝手は分かっている。
扉を開け放ち最初に視界に飛び込んだのは赤だった。絵の具のような赤に彩られるピアノと転がる人の体、絵の具ではない生臭い血の臭い。
「おい、ベルガー!」
椅子に座っていたベルガーはゆったりと振り向く。まるでピアノを弾いている時に声をかけられ演奏を止めたかの如くに。昔事故で肩の神経をやられてしまったが、それまで彼はピアニストだったと聞かされた事をゾロは唐突に思い出した。
近こうとしてぬかるんだ血溜まりに滑った。ベルガーの肩を掴む体勢になり、その拍子に椅子から落ちたのは細身の剣だ。ベルガーは収集家なのでコレクションにある古い鎧や剣の中のひとつだろう。
「どうしてこんな…」
ベルガーを問い正すが、まず先に病院だと思った。床に転がっている男──あの楽器屋の店長だ──も血塗れだが、ベルガー自身が負っている傷も深い。
「あいつが向かってきた…から」
「喋るな。とにかく医者呼ばねェと」
「いい。私は、もう…」
「何言ってんだよ。とにかく電話──ああ、くそ。ドイツ語で何て言やいいんだ?ベルガー、受話器をここまで持ってくるから…」
「駄目だ。私を死なせてくれ」
ベルガーは剣を拾い上げると自分に向けた。ゾロは咄嗟に手を伸ばす。
「止せ!」
鮮血が迸ったのが、自分の手だったならどんなにいいだろうと思った。悪夢ならどんなにか。
「済まん、ゾロ…」
呻き声とともにこときれたベルガーを、血が付着するのも頓着せず抱き起こす。現実である証拠に目はいつまでも覚めそうになかった。近所の人間の通報により駆けつけた警察に連れて行かれ、いつの間にかゾロが凶行を行ったということになっていたが、濡れ衣を晴らす術がなかった。言葉の壁は厚く、ゾロ当人でさえ事情を把握していないのだから、どうしようもない。
数週間後、証拠不十分だった為かやっと釈放はされた。楽団に今更戻ろうとは思わなかったが、結局ベルガーの後継者も見つからず存続もできなかったらしい。オーケストラのメンバーも散り散りになり、コンマスだったヴァイオリニストも一緒にどこかの楽団に入らないかと声をかけてくれたが、完全に容疑が晴れた訳でもないので迷惑だろうと断った。それに、ゾロはもうピアノを弾くつもりはなかった。後になって分かったのは、意識を取り戻した楽器屋の店長は後ろ暗い事情があり、ゾロに全てをなすりつけようとしていたという事だ。名器の贋作をオークションなどで法外な値で売っていたとか、店長と昔から付き合いのあるベルガーもそれに仕方なく関与していたとか。詳細は完全には明かされなかったが、ゾロにとってはどうでも良かった。
本当に、どうでも良くなっていた。すべてが。
「──彼を見つけた時はひどい状態だったわ」
ロビンがストローでからからとグラスを掻き回した。氷が大分溶けてジントニックもただの水に近くなっている。「自暴自棄になって、酒びたりで。私は以前一度だけ彼に会ったことがあったけれど覚えてもいないみたいだったわ。ああでも、それは元々の性格かしらね」
「じゃあ結局事件の原因はその店長だったわけか」
「ええ。密売組織があったとかで、そこが摘発されてから漸く彼の無罪は証明された…ただ、もう何年も前の事だし真相を知ってる人間はそうはいないわ。あなたに話をした記者も多分そのクチね」
「誤解されないようにはっきり言った方がいいんじゃねェの?」
「まだ一部の下世話なマスコミがこそこそかぎ回っている程度だから、会見を開いたとしても水掛け論なのよ。事件に巻き込まれた被害者とはいえ、トラブルがあった人間がやり直すのは難しいものね。だけど世間に恥じる事実は何もないのだから、いざとなれば証明はできるわ」
サンジは吸殻の押し込まれた灰皿にまた新しい煙草を潰して火を消して立ち上がった。
「長く話して、疲れただろ。ありがとう」
「いいえ。納得してもらえたかしら」
ロビンもサンジに倣って席を立ち、スーツの上着を羽織った。
「うん。そのベルガーさんには悪いけど、ちょっと安心したかな。ところでロビンちゃんはゾロと一緒にアメリカ行かねえの?」
「行くわよ。通訳もしなくてはならないし」
「そうか。じゃ、ゾロに宜しく。…電話も、しない方がいいね?」
「できればその方が。だけどあなた──理由を聞かなくて本当にいいのかしら」
「聞いて欲しけりゃ聞くけど。理由っても事務所の理由で、ロビンちゃんの意見とかじゃねェだろ」
ロビンは不思議そうにサンジを暫し眺める。駅の改札へと歩きながら手を振るサンジと別れ、その姿が見えなくなると彼女は溜息をついた。


──やっぱり出ない。
ゾロは渋い表情で携帯電話の画面を見る。この数日、一度もサンジと連絡が取れなかった。余程忙しいのか。しかしここまで電波が届かないというのはありえないから、サンジが電話に出ないのは彼自身の判断と見るべきだろう。
「空港までは30分くらいかしらね」
「ああ」
玄関口にいるロビンの問いに上の空で答え、未練がましく携帯を開く。アメリカに行けば一ヶ月以上帰って来られない。会うのが叶わずともせめて話をしたかった。
「何度電話しても、出ないと思うわ。そろそろ車に乗ってちょうだい」
淡々としたロビンの口調に、ゾロは鋭く彼女を見やった。
「…お前の差し金か」
「人聞きが悪いこと。だとしたら?私を詰ってアメリカ行きを止めるの?」
ロビンは肩を竦め、車のキーをゾロに渡す。「好きにすればいい。ピアニストとしての未来を捨ててもあの子に会いたいのなら」
「俺は……」
「知ってるわ、あなたは地位や名声なんて要らないのよね。でもあのコックさんはどうかしら。自分の為にあなたが道を変えたとしたら、きっと辛いのはあの子の方だわ」
名声なんて糞食らえだ。障害やしがらみになるなら、そんなものはいつだって捨ててやる。しかしそれがサンジの負担になるなら、してはならない。
ゾロはキーをロビンに返して、靴を履き紐を結んだ。
「むきになるな。ここにきてキャンセルするなんて、子供じみた真似はしないさ」
サンジがひとまず引いたなら、十ほども年上の自分がみっともない真似をするわけにもいくまい。ロビンや事務所にはどん底の生活から拾い上げてもらった義理もある。
サンジは、自分のピアノが好きだと言った。
もし自分がピアノを弾いていなかったら、果たして彼は自分に興味を示しただろうか…。
とにかく今すべきなのは邪魔なものを投げうって逃げるのではなく、全てを受け入れて対処する事が必要なのだとゾロは知っていた。
「行こう、時間がない」
もう大切なものを決して、手放したり失ったりしない為に。

 

 


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