ノクターン 4

 




「仕事の話があるんだろうし、俺帰るよ」
「そうか。しかし──」
ゾロが名残惜しそうな様子なのが嬉しくて、サンジはふざけた仕草で人差し指を立ててやった。
「アメリカ行くんだったらお土産買ってきてくれよな。じゃあ」
「後で電話する。…していいか?」
廊下に出るとゾロの声が追いかけてきた。女性の存在が気になって派手なリアクションはできなかったが、サンジは一度だけ頷くと玄関へ向かう。
扉を閉めて門のところまで来たサンジは、騒ぐ胸の鼓動を静めようと実際に左胸に手をやって目を閉じた。
あの女性が来なかったら、多分抱きしめられた状態でキスをされていた。されても今度はおそらく逃げなかった。自分と同じ男の匂いしかしない彼に、触れられるとぞくぞくする。今まで会ったどんなに綺麗で可愛いレディとも違うのに。
彼のピアノに引き寄せられたのが始まりだったから彼自身にも惹かれるのか。それとも彼のピアノだからこそ、捉われて離れ難いのか。どっちだろう。或いは、どっちでもあるだろうか。
サンジは大きく息を吐いて、道に出たがすぐに進路を遮られた。
「ちょっといいですか?ロロノアさんのお友達の方ですよね」
一見して普通の勤め人ではないと判断できる、ラフな服装の男だ。
「いや…」
「そう警戒しなくても。何度か来られているのは知ってますから…。ああ、私はこういう者です」
名刺を懐から示して、「実は今度彼の特集記事を組みたいと思ってまして。それで、あなたの知ってるロロノアさんの情報を教えてほしいんです」
「……」
名刺から察するに雑誌記者らしいが、サンジはゾロに関して語る事柄を持たなかった。初めて会った日から数えてもやっと二、三週間しか経っていないのだ。
「かなりお若いですが、ロロノアさんがウィーンに行く前からのお知り合いで?それとも向こうで…」
「生憎だけど、知り合って間もねェよ」
「ほう。とすると、向こうでの事件はご存じない?」
「事件?」
サンジは僅かに眉を上げた。
「知りたいですか。だったら、こっちの質問にも答えて欲しいですねえ」
徐々に相手は、ねちっこく絡んだ口調になってきた。「こう言ってはなんですけど、彼は人嫌いという噂もあって…まあ、芸術家の方は変わった人も多いですがね。それが日本に戻ってきて早々に親しいお付き合いをされるんですから、よほどロロノアさんはあなたの事がお気に入りで可愛く思っておられるんでしょ?いや、同性だからって隠さなくていいですよ。最近じゃ珍しくない」
回りくどい言い方だが、要するに年下の恋人じゃないのかと勘繰られてるのだと分かり、サンジは思わず男を蹴りつけそうになるのを抑えた。ゾロに迷惑がかかってしまう。
「とにかく話すことは何もねえし」
ふいと顔を背けて立ち去ろうとするが、記者はしつこかった。
「質問に答えてくれるだけでいいんですってば!ロロノアさんはあなたに、向こうで人を殺したって話しましたか?ねえ、ちょっと──」
相手をしては駄目だと己に言い聞かせて、サンジは早足に振り切った。ほぼ走る勢いで。
1DKの所謂ワンルームマンションである自宅に帰り着いた頃には息が切れ、耳鳴りさえしていた。
靴を脱ぎ散らかして縺れる足取りで部屋に上がり、冷蔵庫からペットボトルの水を出してゴクゴクと飲む。空になったペットボトルを流しに転がした時、携帯が鳴った。ゾロだ。話すまでも画面を見るまでもなく着信音で分かる…ゾロだ。
「──サンジか?」
「うん」
「さっきは悪かったな。追い出すみたいになっちまって」
「だって仕事じゃん」
「そりゃそうだが…。まだ帰る途中だろ?家に着くぐらいにかけ直そうか」
「もう着いてる。つうか、今帰ったとこ」
「えらく早いな」
「…見たいテレビあったし」
適当。適当な言い訳もいいところだ。だが何か理由がないとこんなに早く着いてるのは不自然だ。
「それより、仕事の話済んでねえんじゃねえの?あの女の人は…」
「ああ、これから事務所に行くことになってな。彼女は外で待ってる」
つまり暫く電話もできないから、早めにしてきたという訳だろう。
「レディを待たすなよ」
「マネージャーも兼ねてるから、慣れたもんさ。それより週末会えないか。アメリカに行く前に顔見ておきたい」
「え?んん、そうだな。今日は早かったけど、明日から忙しいし土日がピークなんだ。ちょい難しいかも」
「そうか。コックだから会社員とは休みが違うんだろうが…」
「ああ。だから、また帰りとか寄れそうだったら寄るよ」
嘘だ。当分彼の家には行けない。妙なゴシップ記事を書かれて困るのはゾロなのだ。
「待ってる」
「あーでも、家に帰れるかどうかもアヤシイからさ、期待すんなよ?」
もう適当な嘘は沢山。こんなその場しのぎな話より、彼には聞きたい事がある。
「そうだな。お前にも都合があるから無理は言えないが…じゃあ帰ってきたら会おう」
いつだ。
「おう。今生の別れって訳じゃねえしよ」
いつ、帰ってくる…?
「お前って、たまに古臭い言い回しするよな。年に似合わず」
「爺さんっ子なんだ、俺」
「そいつは知らなかったな。今度ゆっくり聞かせてくれ。──ああ、今行く」
最後の言葉は少し遠くなったから、あの女性に応えたものだろう。
「…そんじゃな。仕事ガンバレよ」
「ありがとう。また連絡するから」
急かされたのか、ゾロの方から切れた。サンジはしばらく携帯電話を眺めて、咥え煙草でメール送信のボタンを押す。何てことはない。さりげなく、訊ねればいい。聞きそびれたけど、いつ戻ってくるんだっけ?と。
数行打ってから送信ボックスに入れて保存はしたが、出さなかった。

『ロロノアさんはあなたに、向こうで人を殺したって話しましたか?』

そんなのは聞いたこともない。
サンジはゾロについて何も知らない。いつからウィーンに行ったのかも向こうでどんな暮らしをしていたのかもいつ日本に戻ってきたのかも、何も知らない。
28歳のピアニストであることと、彼の暖かい手と強い瞳とキスぐらいしか知らない。
紫煙と一緒に溜息をひとつ零す。
サンジは煙草をぎゅっと灰皿に押しつけ、浴室に向かった。汗だくだったのがひいて、寒気がしたからだ。シャワーをさっと浴びてジャージに着替えるとパイプベッドに倒れこむ。宵の口といった時間だが疲弊していた。
いつしか眠ってしまい、目覚めた時にはまだ暗かった。時計を見れば夜中の2時だ。さすがに寝たのが早過ぎただろうか。
空腹だったが何かを作るという気もしなかった。棚を探って見つかったクラッカーを齧りつつ、眠気を誘おうとスパークリングワインの栓を抜いた。床に腰を落とし何気なくテレビをつける。平日の夜中だから大して面白いものはやっていないだろうが。画面も見ずにリモコンのボタンを適当に押していたサンジは、ふと顔を上げた。このピアノの音は──。
音楽が終り、舞台にいた人間が中央に集まってアップになった。
気鋭の音楽家たち、とかいう小さなテロップが左下に出ている。数人並んでいる中で一番端にいるのはゾロだ。他の男女と同じで、正装である。ゾロが最も年上に見えた。元々年齢よりも上に見えるし、落ち着いた濃紺の礼服のせいもあるだろう。オーダーメイドなのか、胸幅のあるゾロにもしっくり合っていた。
へえ。似合うじゃん…。
堅苦しい服などは苦手そうだと思っていたが、やはり舞台に出るのにTシャツというわけにもいかないだろう。着る機会も多いのか存外、ゾロの体の線に馴染んでいる。
格好良いなと素直に感じた。サンジの年ではいくらスーツで決めても若造が気合を入れて洒落こんでるように見えてしまう。自然でいて尚、垢抜けた着こなしはやはり多少年齢を重ねなくてはできないものだ。
司会役が一人ずつ話を聞いていき、やがてゾロへとカメラが向いた。二言三言喋ってすぐにカメラは他の演奏者に向いてしまったが。画面の中にいたのは勿論ゾロ本人なのに、違和感があった。どこか作り物めいてよそよそしい、サンジには覚えのない表情だった。
雑誌の取材が来るんだから、そりゃテレビも出たって不思議はないよな。
番組が終わってもサンジはテレビを点けっ放しにしたままワインを飲む。砂嵐のノイズの方が、煩い静寂よりはましだった。

 


「サンジ!そのポワレはこっちだ」
ディナーの時間は戦いで、毎日の流れとは言え慌しく過ぎる。仕事中は打ち込めるから、それでも良かった。余計な事柄は思い悩まなくて済む。
皿が飛び交いそうな忙しさの山を越え、漸く閉店時間を迎え片付けが終わるとサンジはコックコートを脱いで伸びをしたついでに欠伸をする。
「疲れてんのか?怒涛の週末が来るんだからしっかりしろよ。若いんだし」
三十代のパティシィエが冷やかすかの如くに背中を叩いた。
「…昨日はハンパな時間に寝ちまったからさ」
お先、とサンジは店を出た。いつもと違って寡黙なサンジをパティシィエはきょとんとして眺めていた。
店は繁華街から少し離れたところにあるので、この時間は本当に人気がなかった。物淋しさすら感じさせる通りを歩いていく。いつの間にか後ろから聞こえる、自分のスニーカーとは違うコツコツという足音に気づいた。近づいてくると共に鼻腔をくすぐった覚えのある香水の匂いにサンジは振り向く。
「あら…」
「やっぱり。ええと、ゾロの音楽事務所の人だよな」
街灯の光でしか判別できないが、確かにそうだ。背の高い黒髪のその女性は会釈した。
「ええ。後をつけたりして、ごめんなさいね。店を出る時に声をかけたかったんだけれど…あなたがあまりにも難しい顔をしていたから」
「とんでもない。貴女みたいなレディに話しかけられたら大喜びなのに」
サンジは大仰に両手を広げて、「ゾロのことで何か?そうじゃなくて俺に一目惚れして会いにきてくれたとかなら幸せだけど」
「そうね、だったら良かった…のかしら。あなた、年のわりに察しが良さそうだから単刀直入に話してもいい?」
「もちろん。立ち話もなんだから、どこかでお茶でも」
「すぐ済むからいいわ」
女性は首を振って、腕組みをした。「彼には当分会わないで…いいえ、会わない方がいいと思うの。あなたにとっても、彼にとっても」
サンジは女性の顔を眺めていた。知的で冷静な物腰が嫌味にならない品性がある。
「そうか。分かった」
少し俯きがちな彼女の視線を拾い上げるように顔を覗きこんで、サンジは頷いてみせた。「ごめんね、嫌な役させて。いくら仕事でも気の毒だな」
「…あなたはいいの?」
「いいも何も、俺ゾロとは特に何もないからさ」
始まる前に終わってしまった。それだけのことだろう。「ただちょっと気になることがあるんだけど、聞いてもいいかな」
「私で分かることなら答えるわ」
「ゾロが人を殺したって本当?」
軽く軽く、極力軽く。ひたすらに、それだけを意識して言葉を唇に乗せる。
「──記者かTVのレポーターに聞いたのね」
「はは、さすがだな。頭良さそうだと思ったけどカンもいいんだ」
「そうね…それこそ立ち話では済まないのよ。あなた、時間はあるかしら?」
「レディの為ならいくらでも」
ぺこり頭を下げてみせると、彼女は楽しそうに肩を揺らした。
「じゃあ少しだけ、どこかに入りましょう」
女性は言いつつ、前を歩き始めた。「それから、レディは止めてね。私の名前はニコ・ロビンよ」
「ロビンちゃんか。可愛い名前だなァ」
サンジは自分も名乗ろうとして、黙った。きっと彼女は既に知っているだろうと思えたから。
暗い照明の店に入り、二人はカウンターに並んで座った。
カップルかそれとも姉と弟に見えるかなとサンジは薄く小さく笑う。

 

 


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