ノクターン 3

 




怖いもの知らずだとよく言われた。
感心したようにも呆れたようにも。
事実あの頃のゾロは無敵だったのだ。敵がいないのではなく眼中になかった。プレッシャーすらステップアップする為の踏み台に過ぎず、得られるものは全て己の糧にした。誰にも負ける気がしなかった。負けた経験もなかった。
子供時代から数々のコンクールで賞を取り、周りは天才だと持て囃したけれど同時に天狗になっていると批判もされた。騒がれながらも高校を卒業して、コンクール優勝の副賞がウィーンへの旅行だったのを機にゾロはしばらく滞在することに決めた。本場なら、実力さえあれば勝負していけるだろうし自分よりももっと凄いピアニストがいる筈だと思ったのだ。天井知らずの自分を更なる高みに引き上げてくれる奏者が。腕を磨き上げられる場をひたすらに貪欲に、求めた。
だが入国時に前もってコンクール審査員に口を利いてもらうとかいうことに気が回るゾロでもなかった。どこか音大などに入るべきかと探したが行き着けず、財布の中身も段々心細くなってきて途方に暮れた。そう言えば暫くピアノも弾いていないと、立ち寄った楽器店の店長が日系だったのは幸運だっただろうか。とある交響楽団を紹介してもらい面接などもドイツ語なんて日常会話すら理解もできなかったが持ち前の度胸の良さと裏表のない性格で乗り切った。根が音楽を愛する人間同士だし、一番肝心なのはピアノの腕だ。そこの責任者は日本贔屓の男で、少しは日本語を知っていたのも有難かった。必要以上には誉めそやしはしなかったものの、面白い資質を持っているからここに残ればいいと決を下し楽団員にも話を通してくれた。住む部屋の手配をしてくれたのも彼だった。とりあえずは順調な滑り出しで、このまま全てが上手く行くと信じていた…あの日までは。
──何を、今更思い返しているのだろう。
ゾロは我に返る。
最初は、つらつらとピアノを弾きながらサンジのことを考えていたのだ。
十歳違いとは言え、自分にもあんな時期はあったのだと。あの年齢の頃はちょうどオーストリアに行ったばかりで、と思考が飛んでしまったらしい。
弾く手もすっかり止まっている。嘆息すると、ピアノに蓋をした。
鍵盤と手を見つめていると余計に昔の追憶に浸ってしまいそうだ。
血に染まった手。鍵盤の黒と白に鮮やかな赤。
穢された。もう二度と弾かないし、弾けないだろうと思った。それを選んだのは自分の意思だから後悔はしない、けれど自分はピアノしかやって来なかった。ピアノを捨てれば何も残らない。笑えるくらい、何ひとつ。
「その日」以来、ゾロは荒みきった生活を続けた。言葉が殆ど分からないので体を使う仕事しかない。金になるので入り浸った酒場の用心棒などもやっていた。体力はあるし、運動神経は悪くなかったから。
元々いつまでも過ぎた事を悔やむ性質でもなく、その日暮しで年月は経った。日本を離れてどれ程経ったのかも分からなかったし、どうでも良かった。
「──こんなところで何をしているの?」
すっかり塒になってしまった酒場で。それはとても久しぶりに聞いた、はっきりとした日本語だった。
いつもより飲んでいたから酔って幻聴でも聞こえたかと考えながらも、放っとけよ、勝手だろ、とか何とか唸った覚えがある。ああ、日本語を話すのも久しい。言葉らしい言葉じたいを発するのもひょっとしたらものすごく。
「どうするのも、それは勿論あなたの自由だけれど」
その声はゾロの粗暴な言い方とはまったく逆に憎らしいほど穏やかで沈着だった。「ピアノを弾きたいんじゃないのかと思って」
ゾロは持っていた酒のグラスを叩きつけ、怒鳴ってやろうとした。うるせえ、だいたいてめェは誰だ、何知ったふうな事言いやがる、さっさと俺の前からいなくなれ。
しかし実際に出たのは、そのどれでもなく。
「俺は……弾けるのか?」
自分のものとは思えない情けなく掠れた囁きと、一筋の涙だった。

 


仕事が早く済んだサンジはゾロの家の前を一度通り過ぎたが、立ち止まった。
中途半端な時間でバスの本数も少なく、待っている間に帰れそうだと思い徒歩にしたがやはり失敗だっただろうか。ここ数日は忙しく駅からタクシーで帰ることが多かった。そう高給取りでもなく不経済なのは分かっているが、歩くと絶対にここで止まってしまうと思ったのである。現に、そうなったではないか。
理由はどうにでもつけられるよなと心中で繰返す。
珍しく早出だったので時間があった。
この間スパイスの瓶やまな板を忘れた。
…それから?他には?
ゾロがキスなんてしてこなければ、彼の家に寄る理由なんて殆ど要らなかったのに。
多分怒るべき状況だったとは思う。いくら外国暮らしだったり、或いは仮に同性愛者だったとしても恋人でもない相手にいきなりキスをしたりするのは失礼だし非常識だ。怒るまではいかなくても、逃げれば良かった。そんな趣味はないとはっきり言えば良かった。しかし彼の手が頬に触れた時も近づいてきた時も、驚きはしたのに避けられなかった。何故と聞かれても分からない。
キスされた後すぐに席を立たなかったのも、正直なところを明かせば立てなかったからだ。どちらかと言えば控えめな唇の合わせ方だったが、舌を差し込まれると蕩けそうな気持ちになった。
紛れもない男にくちづけられて、嫌悪感がなかったのが我ながら一番腑に落ちない。
彼のピアノは好きだ。心地良くて、許されるならいつまでだって聴いていたい。だからと言って何をされてもいいというのではないが…。
さっさと立ち去ろうと思っていても足は進もうとしなかった。躊躇いがちに門に手をかけると、きちんと錠が下りてなかったのかキイィ、と錆びた音がして開く。やべ、と思い慌てて離れた。周りが静かなのでやたら大きく響いたのだ。
数歩門から距離を取った刹那、ドアの傍にいたのかと思う程に瞬時に扉が開いてゾロの姿があった。
ええと。会ったら、何て言うんだったっけ俺?
「よ、う…。ちょい忘れモンあったし。店も早く終わったからさ、その」
さっき考えて用意していた理由を細切れに並べ、体裁を取り繕えたかとやや不安になる。どちらかと言えばアクションの大きいサンジと対照的に、ゾロはあまり様子が変わらず線の鋭い輪郭や目鼻立ちからか黙っているとどことなく不機嫌なふうにも見えた。
「忘れ物なら、台所を見てこよう。ちょっと待っててくれ」
「でも何個かあるし、俺が取りに……」
言い様追いかけようとすると、ゾロが不思議そうにこちらを振り返ったので玄関でぶつかりかけた。
「入るのか…?」
思ってもみなかった問いに、サンジは表情を固くした。
「あ、ごめ──駄目なら別に」
「いや、そうじゃない。お前がうちには上がりたくないかと思ってな」
ゾロは首を振ってサンジの方に向き直った。「謝るのは俺の方だ。すまなかった…困らせて。気の迷いだと思って、忘れてほしい」
丁重に頭を下げられて、サンジはそれを止めた。立派な体躯の男に謝罪されても何だかこっちの方が居た堪れない。
「いいって、そこまでしなくても。あんたってずっと一人身なんだろうし、気の迷いとか?そういうのってありえなくもないか。まあ、接触事故みたいなもんだと思うさ」
良かった。彼が一歩引いてくれた事で片はつけられる。多少のぎこちなさは残っても、それはそのうち消えるだろう。何せまだ知り合って月日も浅いのだ。
「侘びってんなら一曲弾いてもらおうかね。それでチャラっての、どうだ?」
おどけてふんぞり返ってみせると、ゾロも厳しかった顔つきを和らげた。キッチンで形ばかりは忘れ物を取って、それから二人で居間に入る。
ゾロが弾き始めたメロディに身を委ねながら、これでいいとサンジは安堵していた。どうしてキスをしてきたのかは追求するのも、もう憚られるけれど。
再び、こうして前みたいに彼のピアノを聴けるのだ。
相変わらず見た目のごつさに似合わず繊細で深い音。全然知らない旋律でも流れるにつれ耳に優しく馴染むのは何故だろう。
曲に入り込んでいても目を開けば指の動きをどうしても、自然と追ってしまう。
あの指が大きな手が、自分の頬に触れた。
「へへ…やっぱゾロってずりいよな」
演奏が終わってからサンジはちょっと笑う。
「ずるい?俺がか」
ゾロの視線が柔らかくサンジに注がれた。拘束されたように動けなかったのはこの瞳のせいもあったのではないか。あの時、逸らさないこの意思の強そうな目がとても近かった。すっきりした鼻筋と引き締まった唇が。熱い舌が。
「…ピアノも…キスも上手いって反則、だろ」
うっかり反芻してしまい無意識に下唇を舐めたのをゾロがじっと見ているのに気づき、鼓動が早くなった。胸が詰まって、言葉も詰まる。
「だからずるい、か」
「ああ。だってよ」
口の右端だけを少し上げて微笑む彼は目尻の小さな皺までどこか野性的で男くさくて、女性の可愛い笑い方とは甚だ遠いのに。 自分が持っていない精悍さに惹きつけられる。「俺ホモじゃねえけど、そんな気持ち悪くなかったし」
「それ以上言うな」
ゾロが遮り、サンジの肩に手を乗せた。「また調子に乗って、しちまいそうだ。確かに、俺はずるいのかもな…お前が俺のピアノを好きだと言ってくれたから、そこにつけ込んだ。ただ誤解されたくないのは──お前がここに来てくれれば、充分嬉しいし…嫌がるものを無理強いするつもりはない」
やんわりと、だがきっぱりとした口調だった。
年齢故の抑制なのか、それとも彼の性格なのだろうか。
一線は越えないと確約されたようなもので、サンジとしては満足すべき結果になったと言えるが。決して不快だった訳ではないと、その点は理解してもらえたのだろうか?
「別に……急なのが驚いただけで嫌だったとかじゃ…」
そこまで呟いてから、口を噤んだ。これではまるで、急じゃなければ構わないと言ってるのと同じだ。
案の定ゾロは細い目を見開き、肩に置かれた手にぐっと力が入ったのを感じた。
「…都合良く受け取るぞ?」
ゾロの瞳があの時と同じ光を放った気がした。ここで拒まなければ、逃げ場はなくなるだろう。でも嫌じゃない。それは本当なのだ。
肩にあった手はいつしか背中から腰へと降りてきている。抱き寄せられて彼の掌の温度と広い胸板の固さがシャツ越しに伝わり、動悸は激しさを増した。
唐突に玄関のチャイムが鳴り、弾かれたように二人は離れた。インタホンで応える暇もなくつかつかと一人の女が入ってくる。
「あら、ごめんなさい。お客様だったのね」
あの女性だ。初めてここへ来た時、ゾロと会話をしていた。音楽事務所の人間だと彼が言っていた、さらりとした黒髪が綺麗な。「何度か電話はしたんだけれど、繋がらなかったものだから」
「ああ、悪い。急ぎの仕事でもあったのか?」
ゾロはいつもの落ち着いた態度に戻って女性に訊ねる。
「実は来週からアメリカに行って欲しいの。以前、話をしてた通りM響の一員としてね。当分帰れないだろうけど、あなたにとっても好条件だし──」
サンジは、ぼんやりと二人のやりとりを聞いていた。

日々忙しく小さな厨房で料理を繰返すのとは違う、別世界の住人なのだと改めて認識のみをする。
彼には彼の築いてきた人生がちゃんとある。
彼の音は当然ながら自分だけの所有物ではないのだと思い知らされる、否が応でも。

夢はいつか覚めるのだから。

 

 


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