ノクターン 2

 





「何だこりゃ?何もねえじゃん。いくら引越して間もないからって、なさ過ぎ」
「調味料が揃ってるとは思ってねえけどさ、せめて醤油くらいは置いとこうぜ。日本人として」
「米もねえし当然ながら炊飯ジャーもねえな…ゾロ、普段何食ってんだ?」
いつも一人には些か広さを持て余すこの家だが、今日は違う。来た途端にキッチンへと直行すると棚やら冷蔵庫を覗いてウロウロしていた金色の丸い頭がやっと落ち着いたと思ったら、中央で仁王立ちになって半ば咎めだてするように隅っこに立っているこの家の主を睨んだ。
「カップラーメンとかばっかじゃねえの?」
「いや…ラーメンとかは作るのも面倒だし、大抵弁当かパンで済ますかな」
「30近いおっさんがよう、いつまでもそんな食生活してたらあっという間に成人病だぜ。煙草はやんねえみたいだけど酒は飲むだろ?動脈硬化だの高血圧だのになって肝臓病か脳梗塞で寝たきりなんていうコースを歩みたくなきゃ、ちったあ考えろよ」
「手厳しいな」
ゾロは苦笑いしたが本気で怒ったりはしなかった。サンジの言い方は乱暴だが、悪意があってのものではないと分かる。
サンジがこの家に来たのは初めてではないが、今まではピアノのある居間しか入った事がない。その回数も多くはなく、この十日ほどで数回といったところか。しかし初対面だったのを考えると結構な頻度だろう。
自分のピアノの音が好きだと素直に述べてくれたこの青年の言葉が妙に嬉しくて、面識などなかったけれど彼が仕事帰りにふらりと寄ればゾロは招き入れた。
そして1曲か2曲ゾロの演奏を聴いて、少し話をしてサンジは帰る。その繰り返しだ。
客だからと言ってお茶やコーヒーを出したりと気を使うこともなく、ゾロの負担や邪魔にはならない。ならないどころか、サンジが来ない日はどこか物足りなかった。サンジはお喋りだがゾロがピアノを奏で始めるとピタリと黙り、目を閉じるか或いはじっとゾロの手元などを見つめて聴き入っていた。演奏じたいは自分一人の孤独な作業ではあるが、聴いてくれる者がいるというのは有難いことだ。自己完結しがちな音楽家の世界を広げてくれる。
だからゾロとしてはサンジを歓迎こそすれ迷惑になど思わなかった。しかしどうしても、サンジの仕事が済んでからだと日付が変わる頃で慌しくなってしまう。今日サンジが休日だと聞いたので、暇ならうちに来ないかと誘った。特にデートや友人との予定もなかったらしく、初めて会った時の約束通りメシでも作るかとサンジが腕前披露を兼ねてやってきたのだ。別に食事目当てというのでもなかったのだが、サンジの気が済むのだろうし断る理由もない。なので駆けつけ一番、ピアノよりはまず料理だとサンジがキッチンに入った為この賑やかさという訳である。
「ま、どうせ何もないだろうと思って鍋も全部持ってきたけどよ」
旅行にでも行くのかという大荷物はそのせいか。
「そこまでさせて、かえって悪かったな。重かっただろ?帰りは送るから」
「いいよ。使い慣れたヤツのが良かったのもあるし、大した距離じゃねえもん。さて、作るか…ってガスの元栓も開いてねえし。さては一度も使ってねえだろ?電気はともかくガスは来てんだろうな…」
「ああ。風呂やシャワーはガスだったと思うから、通じてる筈だが」
ゾロも自信なさげである。頼むぜおいとか言いながら、サンジがごそごそ流し台の辺りを弄った。ガス台のスイッチを押すと、小さな発火音がして青白い炎が点る。
「お、やった!これでカセットコンロは免れたぜ」
「おめでとう」
と言うのも変な気もしたが、サンジが嬉しそうに手を叩いてはしゃいだので何となくそう続けた。
「よーし。そんじゃ取り掛かるか。出来たら呼ぶから、待ってろよ」
「手伝わなくていいか?」
「素人に何やらせるってんだ。かえって指示すんのが手間だから、座っててくれ」
仕事にしてるくらいだから、確かにサンジの方が料理はプロだった。単に待ってるのも手持ち無沙汰だし、とゾロは提案を試みる。
「じゃあピアノでも弾いとくか。BGMになるだろ」
「止めろ、もったいねえ。ピアノはな、食った後でゆっくり聴かせてもらうんだって」
ピシリと人差し指を立てて宣言され、ゾロは黙って椅子に座るしかない。
もったいない、か…。
自分の音をそんなふうに言われたことなどあっただろうか。
なるほど、サンジは自分が演奏している時はそれに集中してくれているのだから、その料理を食べる時は他に何かをするのも失礼というものだし、料理を作っている時もできるならそれに謝意を表そう。
そんな理屈を組み立てるよりも先に、ゾロの目はサンジの後姿を追っていた。
インディゴブルーのシャツの袖から覗く手首と同様に、細身で骨っぽい体つきが忙しく動いている。そのたびに丸い頭が揺れた。そこから続く白い項と撫で肩、不意にこっちを向かれて不躾な自分の視線にちょっと疚しさを感じて目を逸らす。
電話のベルが鳴ったのを幸い、ゾロは立ち上がって廊下に出ると電話を取った。
「──ロロノア・ゾロさん?週刊XXですが取材をさせていただきたくてね」
「…事務所を通してくれないか」
形ばかりは敬語だがどことなく下卑た口調にゾロは顔を顰めた。
「いやいや、大袈裟なものじゃないんですよ。十年前にスタンウェイ・ピアノコンクールで優勝してオーストリアに行ったロロノア氏と同一人物かどうか確認したいだけで」
「確認してどうする」
「向こうでスキャンダルを起こしてウィーン音楽界から追放されたと聞きましたが、本当ですか?そろそろ、ほとぼりが冷めたから日本でやり直す為に戻ってきたと…」
「答える義務はないね。ついでに言うと、そこまで立ち入った質問をする権利もあんたらにはない。電話番号をどこで調べたのか知らないが、プライバシーの侵害で訴えられたくなけりゃ取材どうこうの前に良識を守って欲しいもんだ」
一気に言い、ゾロは相手の言葉を待たず荒々しく受話器を置いた。
所属している音楽事務所が色々頑張ってくれるおかげで、ピアニストとしてやっていけるのは事実だが、向けられるのは好意的なものばかりではない。それは覚悟していたが、やはり実際にこうした出来事があると不愉快だ。
溜息をついて、振り返ればサンジが立っていた。
聞かれてたかなと思ったがサンジは微笑んで、
「出来たぜ?細工は流々仕上げを御覧じろ、ってヤツかな」
クイと親指でキッチンを差してみせた。
準備にかかってから一時間も経っていないと思うが、いつもは場所の余ってるテーブルにずらり並べられた皿や器。料理に詳しくないので、名称などはとんと分からないが和食が中心であることは分かった。言い換えればそれぐらいしか分からない。
「へえ。大したもんだな。料理人って言ってたが、料亭とかに行ってんのか?」
「店は洋食屋だけどさ。外食ばっかりの中年には塩分控えた和食の方がいいだろうと思ってな」
ニヤニヤしているサンジにゾロも自然笑みを浮かべて、この野郎と彼の背中を小突く。いざ食事が始まると、ゾロは殆ど無言で勤しんだ。何しろ美味いし、味のバランスもいい。食が進まなければ嘘だ。
「──ご馳走さん。美味かった」
箸を置いて、横にいつの間にかあった緑茶を飲む。
「あんた、がっついてくれんのは嬉しいけどよ…ちゃんと噛めよ」
「まともな和食なんて何年ぶりか分からないしな。つい」
「そういやゾロって外国暮らししてたのか?この間も電話が…」
「電話?」
ゾロが聞きとがめ眉を上げた。「何かあったのか」
「あ、ごめん。ほら一昨日来た時、あんたドア開けっ放しでコンビニ行ってただろ。その時かかってきて…あんまりしつこく鳴ってたから取っちまった。でも日本語じゃねえし早口だしで全然分かんなくってさ。すぐ切れたし、何となく言いそびれてたんだ。悪ィな」
そうだ。サンジが来るかもしれないと思って鍵はかけずに出かけたのだ。
「謝らなくてもいい。大した用じゃないだろうが…ドイツ語じゃなかったか?」
「いや、俺は英語かドイツ語かも分かんねえって」
サンジは空になった食器を流し台へと運んでいきながらボソリ呟いた。「さっきの、相手かな」
「それはない。さっきのは日本人だし、顔も知らねえような週刊誌の記者だからな」
幾分険しい表情になったのをサンジは感じ取ったのか、首を振った。
「蒸し返すつもりはねえよ。でも電話があった事は伝えとこうと思って。さ、片付けたら気合入れて演奏してもらおうかな」
食器を洗っているサンジの背中をしばらく見ていたが、やがてゾロは居間へと入りピアノの蓋を開けた。今日はまだ一度も弾いていなかったので慣らしを始める。小さい音だったが、サンジがすぐにバタバタと走ってきた。
「ずるい!勝手に始めんなよ」
ずるいってお前。
ゾロは喉の奥で笑いを飲んだ。そして手を止めて、自分が腰を降ろしているピアノスツールの端を軽く叩く。
「座れよ」
「え?弾くのに邪魔じゃねえの」
「邪魔になったら言うさ。お前、今日来てから立ちっ放しだぞ」
「…だったら、ソファでも座っとく」
「それだと、弾いてるところが見えねェだろ」
サンジのこれまでの聴き方から、少しでも近い位置で聴くのが、指の動きを追うのが好きなのだとゾロは判断していた。
「へっへ、音楽家ってのは自意識過剰だね。そんなに見てもらいたい訳?」
「ああ…そうかもな」
後ろにいるよりは、視界にサンジの姿がある方がゾロ自身も嬉しいのかもしれない。
低めの音が、緩やかに響く。綺麗な音だとサンジは言った。ゾロのように長くピアノに触れてきた者にとっては、余りにも当たり前過ぎてともすれば忘れそうな事だ。譜面通りに弾くのが目的なら機械でいい。生きている音が聴きたいから弾きたいからやっているのだという事。
隣に座らせたのは他意があってのものではなかったが、奏でるにつれ瞼を閉じたサンジにゾロは目を奪われた。今までよりもずっと近い距離にある彼の顔に。
指が覚えているので鍵盤は見ずとも弾ける。短めの曲が終わると、サンジはゾロの手の甲をしみじみ眺めた。
「しっかし、不思議だよな。何回見てもピアノを弾くような繊細な指じゃねェよ。普通よりもごっつい男の手だ」
「ピアノを弾く人間は、女だって骨太でゴツゴツしてるのが多いがな」
「うわ、夢壊すなよ。レディのピアニストは細くて美しい指で弾くイメージがあんのに」
サンジは大袈裟に眉を下げて、ふざけたように黒鍵盤に指を置いた。「あー、でもやっぱさっとピアノ弾けたらちょっとカッコイイよな。この年になって習おうなんて思わねェけどさ」
「弾けるさ。なんなら簡単なのを教えて…」
言いながらサンジの後ろから腕を回し、彼の手に自分の右手を被せる。サンジの指はひょっとしたらゾロよりも長く、仕事柄か荒れて冷たかった。
「あ」
囁きめいた微かな声とその冷たさにどきりとした。
彼の目線が上がり、ゾロのそれとぶつかる。丸い大きな瞳、長い睫と薄い唇がとても間近にあった。吸い込まれた。左手で、サンジの頬を包むように触れる。

……馬鹿は止せ。

数年ぶりに日本へ戻ってきて、初めて出来たと言ってもいい友人だ。
友人というには語弊があるか。ただ、自分のピアノを気に入ってくれて。そしてゾロにとってもその存在は楽しく、得難いもので。だがそれはいつまで続くのだろうか。
サンジが音楽に深く関わってきた人間でないのは知っている。いつ、飽きて気まぐれな猫さながらに去ってしまうか分からない、不確かな。不安定なこの関係は。
だからと言って自ら壊すのか?自分はいい大人で、勢いで動く分別のない子供ではない。なのに、この歯止めが利かない気持ちは──。
サンジの時間のみが停止したかの如く彼は動かず、動く前にゾロはそっと唇を合わせた。柔らかい痺れが唇を発火点にして全身へ広がる。頬に触れていた手は後頭部へと移動して乾燥した髪に指を差し入れた。共に彼の唇を甘く噛めばやや開く口から舌を侵入させた。彼の肩がぴくっと跳ねたのが合図みたいに、ゾロは息の上がったサンジから離れる。
「…すまん」
勘違いをしてはいけない。サンジはおそらく、ゾロのピアノが聴きたかっただけなのに。
サンジが座ったまま抗議も激昂もしないので、間が持たずゾロはもう一度メロディを奏でた。
曲の終りに近づいて、ようやくサンジが立ち上がり口を開く。
「ビックリした。外国じゃ恋人以外にもキスとかすんだろうけど…ここは日本だぜ」
そうじゃない、と言いかけたがサンジが困った様子で目を伏せていたので黙った。
現在の関係を壊したくないと思っていたのは、きっと彼も同じだったのだ。
その理由にお互い幾分のずれはあるとしても。

じゃあまた、とそそくさと自分の荷物を持ってサンジが玄関から出て行くのもゾロは止めなかった。
…止められなかった。


"また"という彼の言葉は真実味を帯びず、単なる挨拶として耳を掠って消えた。代わりに痛いくらいの深閑さが空間を満たしていく。
再び、自分は独りに戻ってしまったのだろうか。日本に帰ってきた時もそうだったように。
残されているのはこの身ひとつと、奏でる者がいなければ黒い物体でしかないピアノ。
どちらも今のゾロには持て余すほど重かった。

 

 


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