ノクターン

 


彼は音に包まれた。

疲れていたのだ。自分が望んで就いた仕事で遣り甲斐もあるけれど、機械ではないのだからやはり休みなくは働き続けられない。この一週間ほどは正にてんてこ舞というやつでいくら若くても体力が無限大あるでもなく。サンジは急がずゆるゆるとした足取りで自宅のマンションへと向かっていた。だが雨がぱらつき始めて早足にならざるを得なくなる。やれやれだ。
もう少し職場に近い場所に部屋を探すべきかなと考える。一介の雇われコックの身分では悠々マイカー通勤など許される由もない。今日だって、終電には間に合ったもののバスはなくなってしまっていた。駅からは二十分くらいなので歩けない事はないのだが春と言えども、まだまだ夜は寒いし吐く息は白い。途中には住宅があまりなく、街灯も少ないので余計に寂しい雰囲気だ。もっとも、数ヶ月先にはこのあたりも新興住宅が立ち並び賑やかになる予定らしいが。そのためか作りかけの家がいくつもあり、建築材などもそこらに積まれている。
顔に当たる雨勢いが強くなってきてこのまま走るか雨宿りでもするかと辺りを見回したサンジはふと街灯とは違う色の光に気づいた。確かあそこは、昔どこかの金持ちが立てたが破産してしまい売りに出されている家だ。先日までは空き家だったのにと記憶を辿るが電気が点いてるのなら誰かが越して来たのだろう。造り自体は立派だが如何せん古いので、壊して最初から立て直す方が良さそうなボロ家である。
門は壊れていて玄関のポーチがちょうど雨を凌げそうなのでサンジは考えるより先にその下に身を滑り込ませた。ちょっとの間だけなら構わないだろうと服についた水滴を払う。
暫くすると止んできたので、サンジは道に戻ろうとしたが今までは雨のせいで聞こえなかった音を耳にした。
決して大きくはない、どちらかと言えば静かで穏やかな。ピアノの音。
優しげで、仄かに哀愁を帯びたそのメロディは何故かサンジを捉えて彼の足を止めた。
特にピアノも音楽も好きではない。クラシックも曲はいくつか知っててもタイトルとは結びつかない。そんな程度だ。多分一般的なレベルだろう。
それなのに。
音にふわりと抱きすくめられる。
疲れていた為もあるだろうか。普段なら、ああピアノの先生でもいんのかなくらいで行き過ぎてしまったかもしれない。常識で考えれば、こんな真夜中にピアノを鳴らすなんて近所迷惑なうえ安眠妨害だろうがこの辺りには前述の通り家がない。
その曲は、ややテンポが早くなり、それからまた遅くなって静かに終わった。ぱちぱち、と音は立てずに拍手をしてサンジは今度こそ帰ろうとするが。間を置かず玄関から人が出てきたので慌てて住人の死角を咄嗟に選び庭の方へ行った。
出てきたのは男女二人だ。
「調子いいわ。きっとコンサートも大成功ね。そう思わない?」
「だといいな」
「雑誌の取材も詰め掛けてるし、遅咲きのピアニストとしてこれから頑張らなきゃね」
短くそんな会話して、女の方が出て行った。双方、サンジよりも年上だろう。三十前後といったところか。女は門のところに止めてあった軽自動車に乗って去り、男も見送るでもなくすぐに扉を閉めた。
ほっとして、サンジも手入れされていない庭の草むらから出る。不法侵入と言われれば否定できない。雨宿りと言っても止んでから随分留まっていた。ピアノが聴きたくて、なんてまともな言い訳にはならない。
綺麗な女性だった。男はがっしりした体育会系ふうだったから、きっと彼女の方があのピアノを弾いていたのだろう。見ず知らずの他人だが羨ましいなと思う。疲れている時に恋人があんな音楽で癒してくれたらものすごく幸せに違いない。会話から察するに不遇?のピアニストの彼女を大事にしてやれよな、などとお節介にもチラリ見えた短髪の男にやっかみ半分に胸中でこっそり告げてサンジは帰途に着いた。
翌日もやはり帰りは遅くなったが改札口を出るとまだ最終のバスには間に合いそうだった。だが明日は休みが取れたし昨日よりは寒さも和らいでいたので、サンジはバス停留所では立ち止まらず徒歩を選んだ。何故ってあまりにも率直で恥ずかしいが昨日のピアノをもう一度聴きたかったからだ。あの女性が今夜も来てるとは限らず来ていたとしてもこの時間に弾いている保障もないのに。でももしかしたら、と。
それほどにあの音色は、忘れ難かった。
不思議な胸の高鳴りを覚えて、暗い道も気にならない。あの家が近づくにつれ、サンジは足を早めたいような、あえて緩やかに進みたいような心境になった。
聴こえる。
車もそんなに通らない道だから、昼じゃなくて夜ならいっそう引き立つあの音が聴こえる。
今晩の曲は少しアップテンポで小気味良い。きっと弾みながら楽しそうに鍵盤を叩いているんだろうな、あのレディは。今日は遠くで聴くだけにしようと思ったのに、音がやや小さくなるとついついサンジは庭に足を踏み入れてしまった。恋人二人で甘い時間なのだろうから自分の存在なんて気づかないに違いないと高を括って窓の側に移動する。昨日は閉まっていたカーテンが開けられており、黒いピアノとその前に座る人物が目に入った。
「は?」
思わず声を上げて一歩下がる、と、飛び出していた木の枝に引っかかってバランスを崩し転んでしまった。反射的に掴んだその枝ごと。
「──誰だ?」
鋭い声は昨日のあの短髪の男だ。開いた窓から覗く顔つきは声に見合う険悪なものだった。というか元々人相も良くない。
「…ええと…こんばんは…」
どう言っていいか分からず、サンジはとりあえずへらりと笑ってみせた。怪しい者ではないと友好的な雰囲気を醸し出したつもりだった。
「……こんばんは」
男の方もとりあえず返す。サンジの風体を見て、泥棒や浮浪者の類でもないと判断したらしい。だが警戒心は緩めていないのかきつい目つきは変わらない。「そこでいったい何してる。高校生か…?返答によっちゃ、親に連絡させてもらうぞ」
サンジはむっとして眉をしかめる。
「俺社会人だぜ、これでも」
「社会人なら、夜中に人の家の庭に入って部屋を覗き込むのが犯罪になるのは分かっていそうなもんだが」
「うっせえな、おっさん。分かってるっつーのそれくらい」
「おっさ…」
男が絶句してるのを余所目に、サンジは立ち上がろうとしたが植え込みに尻がすっぽり収まってしまって出られない。奮闘していると、家から出てきた男がサンジの前にしゃがみ込んだ。
「掴まれ」
助けてもらいたくはないが現状からは如何ともし難く、渋々男の太い首に手を回す。ぐっと体を持ち上げられて、何とか脱出成功だ。「怪我はないか?」
耳のすぐ側で聞かれ、しがみついていたサンジは急いで男から離れると尻や背中の砂を払った。
「何ともねえよ。勝手に入ってすいませんでした。もうしません。ハイ、これでいいかよ。そんじゃそーゆーことで」
まくしたてて申し訳程度にお辞儀をして(顎を突き出しただけだが)、サンジはそそくさと去ろうとしたが再び二の腕を捕まれた。
「待て、このガキ」
「ああ?誰がガキだ、コラ」
「俺がおっさんならお前はガキだろ。全く最近の若いヤツは礼儀ってもんを知らねえ」
「ちゃんと謝っただろが。離せよ」
解こうとするのだが、なかなかどうして相手は手強かった。
「離してほしけりゃ、入った理由を言ってからだ」
「ってえな、このクソ力!俺はただ、ピアノ聴きたかっただけだっつーの」
途端に男の腕の力が緩む。しめた、と身を屈ませ蹴りの一発でも入れてやろうとしたその足をガッチリ押さえられた。絶対こいつは武道の心得がある。慣れ過ぎだ。
「ピアノだと?」
「悪いかよ。昨日の綺麗なお姉さんが弾いてると思ったら、まさかこんなおっさんだなんて…」
「ってことは昨日もいたんだな。彼女は音楽事務所の人間だ」
「詐欺じゃねェか、クソ」
「詐欺ねえ」
男が思いがけず笑みを見せた。「そんなに俺の演奏が聴きたかったのか?」
「…別に」
「ああ。弾いてんのが女じゃなかったら興味ない、か」
「馬鹿にすんな、てめェ。俺は確かに女の子大好きだけどよ。純粋にあの音が良いと思ったから──」
うっかりそう応じてしまい、男がますます表情を緩ませるのに下唇を噛んだ。どうもいいように扱われてる気がする。
「入れよ。折角だし中で聴いていかないか。ここはもうすぐ防音工事もするから、外には聴こえなくなるんだ」
「え、そうなのか?」
それは残念だと本心から思った。男の腕はいつのまにかサンジの背中に回っていて、トン、と軽く押されるとすんなりと玄関に足を踏み入れてしまう。廊下のすぐ右が居間になっていて先刻のピアノが見えた。そのほかは特に家具らしい家具もなくシンプルと言えば聞こえはいいが殺風景なものだ。
「そのうち住宅がこの辺に沢山建つから、騒音扱いされるしな」
「騒音って…あんな綺麗な音なのに」
「嬉しいことを言ってくれる」
言いながら男は鍵盤に指を落とした。大きくて浅黒い、いかにも無骨な指にはそぐわない流れるみたいな動き。
昨日の曲だ。少し物悲しくて、でも優しさが染みわたる。
──何で、この手からこんな音が出るんだろう。
サンジはぼんやりと視線だけは彼に固定して、美しいに調べに身を委ねていた。家から漏れ聴こえるものではなく、生のその音が奏でる素晴らしい深みに引き込まれた。呑み込まれた。
曲が余韻を残して終わってもサンジは動けずにいた。
「おい?」
鍵盤の端にあった男の手が伸びてきてサンジの肩に置かれてやっと、我に返る。
「あ…すげえな。おっさん、あんたプロになれるぜ」
先刻まで意地を張っていたことなど忘れて、サンジは素直に賞賛した。
「一応コレが仕事だからな」
男が肩をすくめ。「あと、おっさんは勘弁してくれ。俺はまだ28だ。ロロノア・ゾロって名前もある」
「え?てっきり30過ぎかと…悪い悪い」
失礼な台詞だが、サンジの言い方があまりにも屈託がないので彼も笑った。
「そんじゃロロノアさん。いいもん聴かせてもらってアリガトウゴザイマス」
ぺこりとサンジが頭を下げた。「正直クラシックとか全然サッパリだけど。あんたの音は好きだ。そういや、プロなんだよな?CDとか出てたら俺、買うぜ」
暫し、彼は目を細めてサンジを眺めていた。
「…ゾロでいい。CD出せるほどの人気はないし、そんな必要もないだろ」
「え?」
「──聴きたくなったら、うちに来いよ。引っ越してきたばかりの独り身で、もてなしもできないけどな」
驚いたのはサンジだ。初対面で、しかもプロのピアニストが何を言うのかと思う。サンジは探りを入れるように訊ねた。
「音楽家ってのはアンタみてえに素っ頓狂な奴らばっかりなのか?」
「…まあ、変わってる連中は多いが」
「だろーなー。見ず知らずの他人に聴きに来いなんて普通言わねェよ。にしても…あ、もしかして若い男が好きだとか…ホモじゃなくたって、俺のルックスには惚れるかもしんねえなァ。忠告しとくけど、俺は女の子専門だぜ。仕事も忙しいからいくら金とか貰ってもその手のバイトする気ねえよ。つうかアンタって売れてないんだっけ。貧乏ピアニストが美青年を囲うのは無理だろうし…」
ゾロは呆気に取られていたがサンジが喋り終えるのは待てず、とうとう爆笑した。嘲笑ならサンジも黙ってはいないが、嫌味のない笑い方だったから不快ではない。寧ろさっぱりとして気持ちいいくらいの快活さだ。
「理由がなきゃ駄目か…そうだな」
一頻り笑ってからゾロはサンジに向き直った。「観客がいる方が張り合いも出るし、真剣に聴いてくれる人間がいる方が音が生きるってのかな。分かり難いかもしれないが」
「…分かる、気もするぜ。料理だって人の為に作るのは全然違うもんな」
「料理?」
「俺コックだからさ。あ、じゃあこういうのは?今度メシ作ってやる。演奏のお礼に」
「礼なんて考えなくていいさ」
「そうだろうけど。俺もただ聴かせてもらうってのは借り作るみてえで気分悪ィもん。独身じゃどうせロクなもん食ってねえだろ?迷惑か?」
サンジが丸い瞳をさらにくりくりとさせて、椅子に座っているゾロを見下ろす。
「──いや、正直言うと助かる」
「へへ。交渉成立」
コレ電話番号、とサンジが携帯を示すとゾロも自分の携帯を取り出した。
「お前も結構変わってんな。…そういや、名前をまだ聞いてなかった」
「サンジだ」
「サンジ、か。宜しく」
手を握られてサンジはしげしげと男の手を見詰める。暖かい掌だ。このゴツゴツした大きな手があの繊細なメロディを奏でるのだ。そう思うと妙にそわそわしてしまう。男なんかに手を握られて嬉しい筈はないのだが、離すのが惜しい。
「…宜しく」
きっとこの手は特別だと思うからだ。同じ五本の指がそれぞれついた両手なのに、彼の指は魔法の如く音を生み出す。
「どうした、急に大人しくなったな。俺の手に何かついてるか?」
「何も。ただ、あんな曲を弾ける人間の手なんだなあと思って…羨ましいっつうか。いや、別に弾きたいわけじゃねえんだけど。俺にもよく分かんねえや」
「そうか?お前の手だって大したもんだろ。音楽みたいな形の分かり難いものじゃなくて、人が生きていく上で絶対必要とするものを作る。俺はそっちのほうが実用的で凄いと思うが」
「…そ、かな」
フォローなのかどうか知らないが、ゾロの落ち着いた風情と低く力強い声は説得力があった。それにこんな事を普段言われたりはしないから、どこかくすぐったく面映ゆい気分だ。
「ああ。しかも、料理人ならそれで金を取れるくらいの腕じゃなきゃやってけないだろうしな」
素朴でてらいのない口調に、サンジはかえって照れくさくなった。
「そんな持ち上げなくてもちゃんとメシ作ってやるよ。褒めんのは食ってからにしてくれ」
「楽しみだ」
本当に楽しみしているという感じでじっと顔を見て言われるのでどうも落ち着かず、サンジは部屋の扉に手をかけた。
「えっと──俺そろそろ帰るよ」
「そうだな。楽しくて、うっかり引き止めちまった。家が遠いなら車で送るが」
「いやこっからだと歩いても十分くらいだし。レディじゃねえんだから。ゾロって、そういう風に女でも男でも口説くのか?」
サンジが冷やかすとゾロはひょいと肩を竦めた。
「こんなのは口説きにもならないだろ。お前が俺に一目惚れしたとかならともかく」
「…まあな。あ、でもアンタのピアノには惚れたぜ」
玄関で靴を履きつつ、サンジはふと聞いた。「さっきの曲って、何て言うんだ?」
「ノクターン。夜想曲──夜に想う、と書くんだが」
ゾロが空に人差し指で形をなぞってみせた。
「ふーん。なら、今の時間にはピッタリだ」
時計を見れば一時を過ぎていた。じゃあ、と外へ出る。
「気をつけてな」
いいと言ったのに、結局ゾロは門のところまでついて来た。「おやすみ」
ぽん、と軽く頭を叩かれた。
女性扱いでなければ子供扱いか。だが十歳近くも年齢に差があっては仕方ないかもしれない。サンジの職場に年上のシェフはいるがゾロのようなタイプではないし、親しいのは同年代の友達しかいなかった。騒ぐのも悪くないけれど今日みたいな時間を過ごしたのは初めてで新鮮で、また自分は彼の音を聴いて彼と話したいと思っている。その心地良さを味わいたいと思っている。

サンジはゾロに手を振って、歩き出した。

耳には未だ残るあの音。足取りひとつひとつも包む旋律。
柔らかに響く夜想曲。



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