love story 1

 

 


時間がない。

電車の扉が開くのを待ち構え、時計を見ながら階段を降りた。
改札を出て、さて何番出口だっただろうかと首を傾げる。記憶の限りでは確かここだったと五番出口から出たらどうにも見覚えがない景色だ。と言ってもここには数回しか来ていないのだが…。
しばらく大通りに沿って歩いてもやっぱりさっぱり覚えがない店やビルが並んでいるので、間違えたのだと認めて引き返すことにした。
入社説明と会社概要のパンフレットがあったはずだと鞄を引っ掻き回すが、丸々自宅に忘れてきたらしい。もう一度駅の構内に戻り、周辺の案内図を眺める。だが殆ど知らない土地の地図など彼にとっては意味があまりなかった。駅員を半ば脅すようにして案内板の前まで連れてくる。会社の入っているビルの名前と、これだけは頭に叩き込んでいたビルの周りの様子などを話し、漸く正解は六番出口だということが判明した。
通勤時間からはややずれたのか人が少し途切れた階段を駆け上がり、目印にしていた石柱の変わったオブジェを見つけ、ホッと一息。ついてる暇などない。
会社までは十分程だ。走るか、と思ったがどうも踵に痛みを感じる。慣れない革靴で靴擦れができていたのだ。足を軽く引きずり会社へと向かう。何にせよ走っても到底間に合わない時間だと諦めた。
ナントカ式と名のつくものは学生時代から苦手なので元々あまり積極的に参加しようという気もない。入って早々に勤務態度が悪いと言われそうだが、仕方あるまい。叱られたら叱られたで黙って受け流しておけばいい。
彼はもう慌てるふうでもなく──踵も痛かったので──のんびり歩いた。
どこからか散った桜の花弁が彼の額を掠めまた風に乗りひらひらと舞って行く。
会社への道は複雑なものではない。複雑だったらここへは入社していなかったかもしれないが。
ガラス張りのエントランスに足を踏み入れるが、しんとしていた。入社式なのだから当然か。社内の一番大きな会議室を使ってやっているようで、何やら訓示を垂れてる声も聞こえてくる。
中にこっそり入るかと思ったが扉はきっちり閉められており、目立つ気がして憚られた。しかし初日なので自分の所属部署も机も当然ながらまだ分からず、居場所がない。
うろうろしていた彼は、廊下の奥の小部屋からする物音に立ち止まる。
給湯室の札が貼られている部屋から聞こえるのは、食器が触れ合う音と…小さな歌声。
覗き込んでみれば、楽しげに頭を揺らしながら湯呑をずらりと前に並べてお茶の支度をしている男がいた。シャツ姿で袖捲りをして、背を向けて。
丸い頭がゆらゆらと動く度に金髪が遅れてゆっくり後を追う。
「おっと」
足元に缶の蓋が転がった。屈んで拾おうとした、男の手が止まる。彼の存在に気づいたのだ。
「何だお前?」
「…今日から入ることになってて」
「遅刻かよ。初日から弛んでるな」
「すいません」
その落ち着いた物腰からして多分先輩に当たるのだろうと、彼は判断した。「お茶の用意とか、普通女子がするんじゃないんですか」
「んあ?人に言われてやってるわけじゃねえよ。まあ、サービスみたいなもんだな。つか、お前さあ、俺の前で今時女性蔑視な発言すんなよ。レディは大事にするもんだ」
「はあ…」
別に差別意識など持ってはなかったのだが。
「まあ、いいや。これも何かの縁だろうし。飲むか?」
湯呑に入った緑茶を差し出される。喉が渇いていたのは事実なので、遠慮なく戴くことにした。温度も丁度良いし、円やかで苦味もきつ過ぎない。
「旨いですね。このお茶」
「お、分かるか」
男は途端に相好を崩した。「ここのやつ好きでな、家から持ってきたんだ。まあ俺の淹れ方が良いってのもあるがな」
味に拘る性質ではないのだが彼の実家が緑茶の産地で、昔から家で飲まされていたものによく似ていた。
「ごっつくて鈍そうなわりに、意外と分かってんじゃねえの。いや、若いのに感心感心。名前は?」
それは褒めてるんだろうか。若いのにって年は大して変わらなさそうなんだが。
いやしかし、先輩なら逆らわないでおこうと思う。家や部活動などが厳しかったせいか、上下関係の礼儀はちゃんとしないと気が済まないのだ。
「ロロノア・ゾロです」
「ふーん。俺はサンジな」
「どうぞ宜しくお願いします」
ぺこりと頭を下げれば、ぽんと肩を叩かれる。
「いやいや、そんな堅苦しい挨拶はしなくていいって。まあ、宜しく頼むぜ」
気さくな先輩だなと感じた。所属が近いと嬉しいのだが。
にっこり微笑む顔は幼くて、かなり若く見える。ゾロも我知らず笑みを返していた。
不意にガヤガヤと廊下が騒がしくなった。
「ん?済んだのかな」
サンジがひょいと外を覗くと、スーツ姿の女性がカツカツとヒールを鳴らして歩いてくる。
「あら…入社式にいないと思ったらこんなところに」
「皆にお茶でもと思ったんだよ、ロビンちゃん」
「チーフと呼んでって言ったでしょう」
ロビンと呼ばれた女性は苦笑した。「そんな神経回すよりは、式に出席してほしいわね。あなたも新入社員には変わりないんだから」
「は?!」
声を上げたのはゾロである。「…てっきり先輩かと思ったら。騙された」
ついつい不満げな呟きを漏らす。知っていれば敬語なんか使わなかったのに。
「ああ?何人聞きの悪い事言ってんだ。お前が勝手に勘違いしただけだろうが」
それはそうかもしれないが、あんな偉そうな態度を取られては誤解するのも無理はないだろう。
ロビンがゾロに視線を移す。
「あなた、ロロノア・ゾロね。開発部長が迷ってるんじゃないかって心配してたわ。面接の時も大遅刻したんですって?」
「へえ。そんなんでよく通ったな」
「実技の成績が物を言ったみたいよ。さ、早く行きなさい。所属は四階になるわ」
ゾロはどうもと口で呟き、廊下を歩き出す。
「おい、何で非常階段に向かうんだ?ちゃんとした階段がこっちにあるだろうが」
サンジが呆れ口調で言い、追いかけてきた。連れられて部署に行くとサンジがゾロのことなどそっちのけで女子社員と親しげに話し出す。サンジとて一日目だろうに、その溶け込み方はゾロにとっては不可解だった。

 


「よう」
入社してから一週間が過ぎた頃。
エレベーターに乗り込もうとしたところに声をかけられて振り向けばサンジが立っていた。部署もフロアも違うのでそう滅多には会わないのだが、相変わらずピシリとスーツを着こなしている。最初先輩かと思ったのはそのせいもあるだろう。ゾロのようにいかにもリクルートファッションなのではなく、着慣れている印象を受けるのだ。「お前今日暇か?」
「…何で?」
「飲みに行かねえか。イケる口だろ、お前。新歓の時も顔色代えずにガブガブ飲んでたもんな」
くいとオヤジくさく親指を唇に添えて見せる。「奢るからよ。この前、ええと騙した?お詫びに」
「──別に…騙されたってのは言葉のアヤだ」
この前は間違えた方が悪いと言っていたのに、急に態度が変わられても戸惑う。
「いいからいいから。俺と飲むの、嫌でなけりゃ付き合ってくれ。実は店も予約しちまってるんだよ」
強引な、と言うか何と言うか。だがそこまで言われては断るのも悪い気がした。特に予定もなかったゾロは頷いて、サンジの後についていくが。
間もなく激しく後悔することになった。
「──で。これはどういうことなんだ」
「何ー?聞こえねェよ」
そこの居酒屋は客も大勢だし音楽も煩くて、声を張り上げないと会話もできない。前に並んでいる女が数人、横にいる男たちも名前と顔は一致しないものの同じ会社の人間ばかりだ。
ゾロはサンジの腕を掴み、トイレに連れてきた。静かに話せそうな場所はここぐらいしかない。
「どういうことか説明しろよ。二人だけと思ったのに──」
「そんな目クジラ立てんなって。皆で楽しく飲みゃいいだろ?」
ゾロは酒好きだからこそ故に皆でワイワイと飲んだりするのはあまり好まない。一人で家で飲む方がじっくり味わえる。ムスッと両腕を組んでいるゾロを、サンジがいなした。「聞いたぜ。誰かが誘ってもお前、全然付き合いもしねえってな。これから社会人としてやってくのに、そんなことでどうすんだ?機械みたいに仕事だけしてりゃいいってもんじゃない。協調性あってこそ会社の人間関係は成り立つってもんだ」
「…俺を餌にした奴が偉そうに」
ゾロがフンと嘲うと、柔らかだったサンジの表情が一変した。
「あ?何がだよ」
「ロロノアくんを連れてきてくれてありがとう〜とか言われて鼻の下伸ばしてた野郎はどこのどいつだって話さ」
「女性の頼みが断れるかよ。てめェが愛想ねェもんだから、面倒見のいい俺が連れてきてやったんじゃねえか」
「余計なお世話だ。俺ァ誰かみたいに女の尻追う為に会社行ってんじゃねえ」
「んだとコラ。もう一遍言ってみやがれ!」
サンジがゾロのネクタイをぐいと引っ張った。
「何度でも言ってやる。仕事なんかそっちのけでヘラヘラ女に尻尾振るんなら、転職してホストにでもなったらどうだ?」
「てめェこそ何なんだよ。二人だけと思ったのにって、何ソレ?実は俺と二人っきりで飲みたかった訳?うっわ、お前ホモだったのか〜。そりゃあ女の子の誘いも、断るよなァ。そうかそうか気づかなくて悪かっ」
サンジの台詞が終わる前にゾロはサンジに頭突きを食らわした。
「てめ…」
サンジが鼻を押さえると指の隙間から血が伝う。「口で敵わねェなら暴力かよ、この野蛮人が。教えといてやるが俺ァ、やられた事は倍で返す性分だ。後悔すんなよ」
言うと同時に横っ腹にサンジの爪先が叩き込まれた。あえて受けるつもりでその自信もあったのだが、衝撃にゾロの体がぐらつく。一瞬息が出来なかった。
(何だこいつ)
素人の蹴りとは思えない。
ふんザマァみろ、と顎を反らすサンジを見てカッとなり飛び掛る。
数分後、双方スーツはよれよれで傷だらけな二人がトイレから互いに肩をぶつけるかの如くに出てくるのを、会社の仲間は唖然として眺めていた。
──出会いは春嵐さながらに。



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