義烈の獅子


 

──若。
どうぞ、ご無事で。

 


庭園には様々な形の石が置かれ、造られた池の傍には灯籠と猪おどしがあった。竹筒に水が溜まって傾き、ごく偶にコーンという澄んだ音が響く。 すぐ近くの部屋には何人か男達がいるのに、一種異様な程の静けさが辺りを支配していた。会話がないわけではないが低く交わされるのみで、静寂ではあっても穏やかとは言えない空気が窺えた。
少し日が翳った頃。まるで彫像の如く、縁側にて端然と正座していたゾロは中の気配が動いたのを感じ、横に置いてある日本刀を取って立ち上がった。障子が内部からすっと開かれる。最初に出てきたのは、天井の低い日本家屋には不釣合いな大柄な男だ。纏った豪華な毛皮のコートのせいもあって余計にこの場にそぐわぬように見えるのだろうか。
「いい庭だな」
貫禄のある風体に似合う野太い声が発せられる。後から現れたゼフは面白くもないという面構えだ。
「半端な極道モンに世辞言われても嬉しかねえな。伝統美なんざ分からねェだろうに」
「昔とは違うんだ。現代のヤクザはスマートにいかねえとな」
その男が口元を歪めて笑うと顔全体に刻まれた傷も歪んだ。「古臭い事言ってちゃ時代に取り残されるぜ。てめェの跡目の方がそのへんは理解できるかもしれねえ。何しろこの若さだ」
指輪を沢山嵌めた手をゼフの隣にいたサンジに伸ばそうとするのを見て、ゾロは鯉口を切った。
「…おいおい、番犬の躾はちゃんとしとけよ。俺がこんな場所で大事な取引先の若様に何かすると思うのか?」
「うちの組の敷居を跨いで出て行くまでは客人だから無礼はさせん。だが、取引先とは聞き捨てならねえな。俺はてめェと金輪際手を組む気はねえ」
「クハハ…商談決裂か。残念だ。どうなっても知らねェぜ」
さほど残念でも意外でもない様子でクロコダイルは肩を揺らし、決して急がず廊下を歩いていった。
ボディガードもつけず単身で来たというだけでも相当の度胸、そして自信は持っているのだろう。ここで殺される筈がないと知っているのだ。
最近頭角を現してきたクロコダイルは、日本のヤクザと言うよりは向こうのマフィアのようなやり口で組織を広げていっている。政界にも進出しようとしているという噂もあった。彼が取り仕切るのはバロックワークス社といい麻薬売買にもかなり手を出し、表立って抗争はないもののゼフが取り仕切る組とは実に危うい関係にある。
クロコダイルがベンツに乗り込んだ。門のところでゼフとサンジ、そしてゾロが見送る。
「あんまり先走るんじゃねえぞ」
年齢による衰えなど微塵も感じさせない鋭い目がゾロを睨む。申し訳ありませんとゾロが頭を下げた時には、組長は玉砂利を踏みながら玄関へと戻っていた。そしてすぐに他の幹部を引き連れて現れ、「留守は頼んだぞ」と一言サンジに言い置いて外出する。本来出かける予定だったところをクロコダイルが時間が空いたからと無理に約束を取り付けてきたのだ。使用人や組の人間はもちろん他にも沢山いるのだが、総締めが不在だとどことなくひっそりとした雰囲気が漂う。サンジは話し合いの間は吸わなかった煙草を咥えた。間を置かずゾロがライターを懐から出して火を点す。「ゾロ」
「はい」
「てめェ、本気であのワニ男殺るつもりだったか」
「あの男は、コートの陰になっていた義手が何かの武器になってましたので。万が一の場合は刺し違えてでも止める所存でした」
「ふうん」
サンジは目を細め、美味そうに煙を吐く。「ぶっ殺すのは構わねェがてめェも死んじまっちゃ後始末は誰がやると思ってんだ、あァ?てめェは俺に一生を預けたんだろ」
「はい。この命は若のものです」
「なら、死に場所を決めんのはこの俺だって事忘れんな。──異存はあるか?」
「…いいえ。すべては若の御意の通りに」
ゾロは通常は冷静で極めて有能な男だ。だが、やはり完璧な人間などいない。彼にも弱点はある。それがサンジ自身だと言うのは驕りでも何でもない事実だと思う。そしてそんな彼をサンジは決して失いたくなかった。ゾロの代わりになる人間などいないのだ。屋敷の中に戻って用意された夕食を済ませると、電話だという知らせがあった。子機を持ってきたヨサクは難しい顔をしている。
「クロコダイルですぜ。後で連絡させますかい?」
ゼフは携帯電話を嫌って、持っていない。サンジは保留メロディが鳴る子機をちょっと眺めていたが、やがて受け取り話し始めた。
「生憎、クソジジイは留守だぜ。だが、そんな事ァ承知でかけてきたんだろ」
電話の向こうのクロコダイルは楽しそうな口調だ。
『察しがいいな。その声は若の坊ちゃんか?』
「用件は」
『さっき邪魔した時に忠告したろう。俺に歯向かう奴はな、ただじゃ済まねえんだ。お前とこの若いのを二、三押さえてる。数日中にゃヤク中にして…ついでにそっちの家にもエスを忍ばせとくのもいいな。わざわざ教えてやるんだ、俺は親切だろう』
「…何がしたい?」
『取引さ。あの頭の固い爺さんと違って、お前は物分りが良さそうだ』
「分かった。俺が話つけに行ってやる。だから、ウチのもんは解放しろ」
『流石、それでこそ次期組長だ…。歓迎するぜ』
いやらしい嘲笑めいたものが耳に入り、サンジは電話を切る。ゾロが無言だがサンジの一挙一動も見逃すまいときつい瞳で見詰めていた。応対も聞いていたのだろうし、下手な誤魔化しはできないとサンジは肩を竦める。
「クロコダイルのとこに行く。お得意のシャブ使って、ここにサツに手ェ入れされる気だ」
「お供致します」
「駄目だ」
「若」
「あいつも一人でここに来たんだから、俺だって一人で行ってやるさ」
「ですが、あの男はどんな手段を使うか…」
「心配すんな。あいつ俺には価値があると思ってやがるし、そう簡単に手は出さねえだろ」
サンジは安心させるみたいに口角を上げて、「お前はクソジジイにこのことを伝えろ。用が終わったら連絡するから、迎えに来い。いいな」
「…はい」
サンジの命令は絶対なのだ。ゾロは小さく頷く。
帰ってきたゼフはサンジが一人でクロコダイルの元に向かったと聞いて、厳しい顔になった。引き換えに戻ってきた者は皆揃ってゼフに土下座した。若に申し訳ない、すぐにでも態勢を整えてクロコダイルの元へ行かせて欲しいと勇んだ。日頃は我侭放題のサンジに振り回されている部下達もいざという時の彼の肝の据わり方は認めていたのだ。慕われているのは悪い事ではないが、とゼフは苦笑する。少し待って自分に相談すればいいのに、若さ故か性格故か独断が過ぎるのは困りものである。組の跡取りという、いつ命を狙われてもおかしくない存在なのに今まで殆ど怪我すらしないで生きて来られたのは厳重な護りも大きい。単身で乗り込んで無事に済むかどうかは、もうサンジの強運にかけるしかなかった。しかし翌日になってもサンジは戻らず、ゾロが呼ばれもしないのにゼフの部屋にやってきた。一睡もしていないのだろう、彼の目は充血して薄く隈も浮かんでいた。
「若を、迎えに行かせて下さい」
「てめェ一人でか?」
「人数が多くては騒ぎも大きくなります。一人の方が自由に動けますので」
「分かった。だが、皆に準備はさせておこう」
日本刀を携えて黒いスーツを着たゾロは振り返りざま、ゼフに訊ねた。
「クロコダイルは、討っても構いませんか」
「…サンジの命に関わるならな」
ゾロは礼をして、襖を閉めた。
──最近はこんなところも多いのだろうがヤクザの家とは思えないほどモダンな造りの屋敷だった。防犯システムも完備していそうな高い塀は、見ただけで普通の泥棒なら入る気も失せるだろう。ゾロは暫く様子を窺っていた。間もなく車が数台門前に横付けされる。何か会合でもあるのだろうか。最後に来た二人連れのうちの一人がさっさと中に入ったのを見て、黒っぽい色のスーツの男に素早く近寄った。監視カメラは門の傍にしかないと判断して、その死角になるように。男に当身を食らわせ、車の陰に放り出すと被っていた帽子を拝借し早足に門を通った。玄関に続く石段で相方を待っていたらしい男と鉢合わせる。「何だ遅かったな…ん?お前…」
否応なく鳩尾に拳を入れる。出入りが激しいのは侵入する隙もあって助かったが、すぐに見つかる危険性も高い。忍び込んだのが判明するまではそう長い時間ではないだろう。隠密にサンジを連れ戻す気等更々ないが、見つける前に捕まる訳にはいかなかった。だが男たちの会話の端にサンジの名前を聞き、ゾロはすらりと刀を抜いた。三人を一瞬のうちに無言のままに斬り捨て、残る一人の喉へ刃を当て冷ややかに言った。
「若の元に、案内しろ」
階段を上がり行き着いたその部屋の真ん中で、サンジはぐったりと身を投げ出していた。
「若…!」
ゾロが駆け寄って揺さぶると、サンジが瞼をうっそりと開いた。ゾロか、と本人は言ったつもりなのだが声は掠れて出ていないに等しい。
「ご気分は?痛みや痺れなどはありませんか?」
いつも落ち着いたゾロには珍しい、急いた口調だ。
薬のせい、喉渇き過ぎて、声でねェだけ…水、と囁く程の声量でサンジが言う。見た目身体的には特に異常はないが薬物を投与されたのなら何か効用があっても表面上にはすぐには現れないだろう。ここは客室なのかホテルみたいになっていてトイレもバスもあったが、サンジは立てる状態ではない。ゾロは洗面所に備え付けてあったコップに水を汲み、サンジの口元に持って行った。「…飲めますか」
彼の唇は震えていて、飲もうとはするのだが流れて顎を伝い落ちた。自宅に戻ってからでもと思ったがサンジの苦しそうな様は正視出来かねた。
「失礼します、若」
頭を固定するとサンジは目を見開いて、長い睫が瞬く。ゾロは水を含み、サンジの唇に己のそれをつけて流し込んだ。喉が隆起し、金色の髪が僅かに揺れた。数回繰返すとサンジが咳き込む。
「大丈夫ですか」
「…ああ…」
先刻よりは随分はっきりした発音になったので、ゾロは安堵の息をついた。
然程ゆっくりはしていられない。案内させた男はとうに逃げてしまっていた。きっと今頃クロコダイルに知らせに行ってるだろう。
「では参りましょう」
「待て。…お前、チャカ持ってっか」
サンジがゾロのスーツの裾を掴んだ。身体もまだ自由が利かないだろうに、気力でゆらり立ち上がるサンジをゾロは感に堪えないといった表情で見詰める。
──クロコダイルが数人の部下を従えて部屋に踏み込んだ時には誰もいなかった。
「逃げたか…薬はまだ効いてた筈だが」
忌々しげに葉巻を吐き捨て、舌打ちをする。
「まだいるぜ」
少し掠れているその声に振り返ると、銃口がクロコダイルのこめかみにピタリと当てられた。「えれえ手荒な歓迎してくれたから礼しとこうと思ってな。おう、ワニ野郎。こっちは一応丸腰で来たんだ。なのに有無を言わせず薬仕込むなんて、いささか礼儀からは外れてんだろうがよ」
サンジがぐいと拳銃をきつく押しつける。
「フン、ドブ臭えチンピラに礼節を説かれるとはな」
「極道にゃ極道なりの仁義ってもんがあらァ。そんな事も分からねえんなら、性根叩き直してやっからウチの組に入るか?クソの役にも立ちそうにねえが、靴磨きくれえなら出来んだろ」
「若造が…調子に乗るなよ!」
クロコダイルは力任せに銃を跳ね除け、サンジに馬乗りになって手を振りかざした。義手の先は鉤状になっている。サンジは顎を逸らして悠然と微笑んでみせた。
「最後にひとつ言っとくぜ」
「ほう。そりゃ遺言か?」
「てめェが聞く最後の言葉って意味さ。…そいつは番犬じゃねえ」
数人いた部下達を一刀の下に斬り伏せたゾロの存在を、クロコダイルが認めた時は既に何もかもが遅かった。
揺るがぬ矜持に鋭い牙と爪を忍ばせて持つ。
──獅子が、そこにいる。
「あばよ、クソワニ」
向けた台詞と刃の唸りが重なり、サンジの顔に鮮血が飛び散った。



バロックワークスの長が倒れて混乱の最中、累々と倒れゆく男達はゾロが通った軌跡だった。
ゾロは、阿修羅さながらに血を浴びて滴らせつつ刀を振るった。近づく者を片端から斬り散らして道を開くと、サンジを抱きかかえて外へ向かう。歩けると言ったのだが、普段よりも動きが鈍くなっているのでここを抜けるまではとゾロが離さなかったのだ。屋敷を出て、離れた場所に止めてあった車の前まで来ると漸くゾロはサンジを降ろし後部座席に乗せた。
「クロコダイルは俺がやっても良かったんだぜ」
「僭越ながら、それは若のお役目ではないと存じます」
汚れるのは我が身であるべきだった。この手が如何ほどの血に染まるのも罪科を負うのも厭わない、サンジを守る為ならば。
そんな決意を漲らせている瞳が光る。
「ところで、随分と血が付きましたが…お怪我はされてませんか?」
覗き込まれて近くなった顔は、先刻の口移しを反芻させてサンジは無意識に自分の唇を舌で湿した。
「…大丈夫だ」
「薬の事も気になりますし、戻ったらすぐに医師を呼びますので」
「ゾロ」
「はい」
「心配したか」
ゾロは少し黙りこみ、強い瞳の色が微かに和らいだ。
「──生きた心地が致しませんでした」
しみじみ吐き出す言葉は溜息混じりである。滅多に見せない彼の本音だった。「若はかけがえのない方です。どうか御身ご大切に」
淡々と感情を抑えて語る、その凛とした佇まいも。彼の根底に滾る熱い奔流もすべてサンジだけのものだ。ゾロはサンジから離れられないし、サンジもゾロは手放せない。いつしか彼の業火の烈しさに包まれて焦がされる日が訪れても。或いはいっそ、その瞬間を待ち侘びてすらいるのかもしれなかった。
「帰ったらクソジジイにまた世話かけちまうな。医者がいいって言ったら、温泉でも行くか?」
「若の命ぜられるままに」
「…冗談だ。車出せ」
「畏まりました」
ゾロがエンジンをかけ、サンジは力を抜いてシートに凭れる。
「ちょっと寝る。着いたら起こしてくれ」
「はい。お休みなさいませ、若」
聞き慣れた低い声に安堵して目を閉じた。

とことん精魂こめて忠義を尽くせと思う。俺の全部で残さずに受け止めてやるから。

重い枷は互いの支えになり糧になる。血を啜り肉をも食らい、奈落へと向かって進み続ければいい。
共に、命果てるまで。



-fin-
20040117



[TOP]


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送