factor

 

 



一歩前へ。
滑るように、静かに。そして加えて鋭く。
それは多分彼全体が頭の天辺から爪先まで纏っている空気故に感じるものだ。
黒い剣道着に身を包んだ彼は身長も低くはないもののずば抜けて高くもないし、体つきも平均的な高校生よりはがっしりとはしているが胴着を着ければ多少の体型の違いは普通ならば分からない。
それでも自分はゾロを見分けることができるという自信があった。
彼の仕草ひとつも逃すまいと、時間が許す限り瞬きすら惜しいほどに見つめてきたのは伊達ではない。
軽い、高めの澄んだ音がして向かい合う二人の竹刀が弾き合った。
お互いに、ジリジリと横に移動して拮抗が崩れるのを待っていた。
ざわめきや歓声で騒がしかった場内はいつしか静まり返っている。息詰まる沈黙だった。サンジは、自分の掌が汗のせいかじっとり湿るのを感じた。


動いた。
踏み込んだ。
裾捌きも鮮やかにバネの如く一度沈んで伸び上がる体、風を切り綺麗なラインを描く剣。

一瞬後、それが相手の面へと叩きつけられる。


──駄目だ、浅い。
終わったと思ってもサンジは目を閉じなかった。会場が沸く。だがサンジにはあまりそれは感じられない。聴覚よりは視神経に全てを注ぎたかった。ただ食入るみたいに彼を見ていた。
技が決まらなかった直後はどうしても隙がある。
一本!と審判の声が響いた。
判定が上がったのは相手校だった。これで彼にとって、高校最後の大会は終わったのだ。
面を外し、剣士が礼をする。ゾロは泣いていなかった。
皆の所に戻った時もゾロの目に涙はなかった。だからサンジも泣かないと決める。
何だか手が痛いな、と思って開いてみると爪で傷ついたのかうっすら血が滲んでいた。
「残念だったな〜団体戦でもあそこ確か準優勝だったろ」
「ああ、まさかロロノアが負けるとはな。去年全国一位だったから、舞い上がったんじゃねえ?プレッシャーに負けたとかさ」
周りの観客が好き勝手な事を言う。聞いてると蹴り飛ばしそうだったから、サンジは席を立って会場を出た。
時計を見ればまだ昼過ぎだったが、サンジは足を早める。応援に来ている同じ学校の人間と顔を合わすのも、今は避けたかった。

「あ、サンジくん?暇?」
携帯から飛び出してきたナミの声は陽気だ。「良かったら料理とかデリバリーしてほしいなあなんて」
「ナミさんの頼みならいつだって」
「あら、元気ないわねえ。まあでも、ゾロが負けたんだから仕方ないか〜。何よあんた、負けた癖に偉そうに睨むんじゃないわよ。いくら手術後間がなかったからって、負けは負けなんだからね」
後半の台詞は少し遠くなったのでサンジに向けたものではない。電話の向こうはえらく賑やかだった。
「…ゾロが、そこにいるのか?」
「え?うん。だって今ねえ、ゾロの部屋だもん。負けたけど皆で大会の打ち上げするっていうからビビに付き合ったの。もう三年しか残ってないのよね。でも、よく食う奴ばっかじゃない?ビビがお金出すって言ったけど、サンジくんが時間空いてるんならそっちの方が美味しいし──何よ、あんた」
ナミの不満げな声から低い無愛想な声に変わった。
「来なくていいからな。そろそろお開きにするところだ」
ゾロの口調があまりにも普段通りだったので、サンジも自然に返すことができた。
「バーカ、俺はナミさんにお願いされたんだ、てめェが決めんな。大人しく待ってろ」
サンジは言うだけ言って電源を切ると階段をドタドタ走りながら降りて台所に入る。ゼフがいれば煩いと怒鳴られるだろうが、幸い義父は仕事で留守だ。
前もって準備するわけではないから豪華な差し入れはできないが、そこらのコンビニなんかで買うよりは余程ましなものを作ってみせる。作り置きの冷凍パイ生地やソースが大活躍だ。勝ったら無理矢理デートでも仕掛けてやろうかと用意していたサンドイッチ用のパンもある。先に切り落とした耳を揚げるついでに、パイ生地等と同じく冷凍してあったクリームコロッケと春巻も。あまり時間もかけられない。なるべく急ぐ。
お重やタッパーを総動員して暗い道を走り、サンジがゾロのアパートのチャイムを押したのは電話から約四十五分後だった。
「待ってたわよ〜。わ、美味しそうな匂い!」
「ありがとう、サンジさん。ごめんなさいね、遅くに無理言って」
「どういたしまして。レディのお願いならいつだって大歓迎だよ」
にこにこしてサンジが部屋に上がりこむ。数人の剣道部員達もいて大して広くもない部屋が益々むさ苦しくなっていたが、どいたどいたと持ってきた料理を広げた。窓際に座り込んでいたゾロが缶を片手にサンジを一瞥した。
「来なくていいつったろが」
「ナミさんに料理頼まれたから来たんだよ」
「なら、用は済んだろ。帰れ」
「ま!ひっどい男ねえ」
ナミが大袈裟な身振りで非難する。「サンジくん、気にすることないわよ。試合に負けたからって恋人に当たるなんてサイテー」
誰が恋人だ、はったおすぞてめェとゾロが凄みを利かせても、ナミはてんで平気なものだ。
「いいんだよ、ナミさん…。ともに辛苦を乗り越えてこそ愛の絆は強くなるんだから」
芝居がかった言葉に部屋にいた者達がゾロを除いて笑い、雰囲気が和やかになった。
サンジのゾロへの積極的なアタックは部員も知っているし別段驚かないのだ。サンジがどこまでも能天気な様子なので、尚更皆で囃し立てたりする。
沢山作ってきたつもりだったが、やはり人数のせいか容器は次々と空になった。
ナミとビビが終電がなくなりそうだから帰ると腰を上げれば、部員たちものそのそと立ち上がる。中には泊めてくれと言い出す者もいたが、ナミに小突かれた。
「邪魔者は消えるのよ」
何故か部外者のナミが場を取り仕切っていたが誰も文句は言わないのである。「じゃ、サンジくん。あとは宜しくね」
「やだなァナミさん。俺も帰るよ。レディたちを駅まで送り届けなきゃ」
サンジが靴を履きつつ狭い玄関から出てくるのを、ナミが手で制する。
「馬鹿ね。気を利かせてあげてるんだから好意に甘えなさい」
「うん、嬉しいけど。でも──あいつ、今日は一人になりたいんじゃねえかな」
「帰れ帰れって言うのは気持ちの裏返し。あいつが弱るなんて滅多にないんだから、こんなチャンスは利用しなきゃ。恋は戦いよ」
分かった?と今度はサンジの胸をトンと押して扉を外から閉めた。
ナミと問答を繰返すのは意にそぐわないから、サンジは出て行かずに待つ。ナミたちが完全にここを離れたら帰ろう、と思った。
足音と話し声が遠ざかっていく。
サンジはそれから二、三分ほど待ってノブに手をかけた。だがゾロのことが気になった。さっき彼は随分眠そうにしていたが、もし寝てしまってたらタオルケットか布団でもかけてやろうかと振り返る。振り返ったところでゾロがすぐ近くに立っていたのでギャッと飛び上がった。
「何やってんだよ」
「俺の台詞だ。皆帰ったかと思って見に来たら…何だ、忘れもんか?」
「いや、ただナミさんが」
驚いたのでつい、そう続けてしまってから口を閉じた。
「どうせ慰めてやれとか言ってたんだろ、あの女はヘンにお節介なとこあるしな」
ゾロが苦笑する。「とにかく突っ立ってられると落ちつかねえし、座れよ。つってもあいつら引っくり返してったから座る場所もあんまねェけど」
「始めから散らかってただろうがよ」
言いつつ、中に戻る。慌しくナミを追いかけたので、器を片付けるのを忘れていた。容器を積み重ね、紙袋に仕舞った。ついでに散乱しているお菓子の袋や缶などもゴミ袋に入れていく。
「おい、それまだ入ってんだ。貸せ」
サンジが手にしていた発泡酒の空き缶をゾロがひょいと取り上げた。
「飲み過ぎんなよ。いくら休み中だからって」
「てめェは俺の嫁さんか」
「気持ちはな」
「そんじゃ俺は飲んだくれの亭主かよ。酒寄越せっつって卓袱台でも引っくり返すか」
「お前それ、いつの時代の話だ?」
サンジは受け流しながらも、やっぱりいつもとは違うと感じた。
サンジがゾロを好きなのを彼も知ってはいるが、こんなふうな軽口は叩かない。
惚れさせてやる、などとサンジが息巻いてたのは本当についこの間だ。
それから特に関係に進展はなかったが。最後までちゃんと付き合ってみろと彼が言ったから、見ていてもいいのだと許可は与えられたと思ってそれが嬉しかった。だから新幹線を乗り継いで決勝戦も観戦しに行ったのだ。
「ザマァねえよな」
ゾロが飲み干してポイと放り投げた缶もサンジが拾った。「偉そうに見とけとか言ったのに」
「仕方ねえだろ。試合に出るのもホントは無理だったんだし」
大会の途中でゾロは靭帯を傷めて手術を余儀なくされ、試合も医者に止められたのに彼はそれを聞き入れず出場した。
「取り繕うんじゃねえ、鬱陶しい。…みっともねえって思ってんならそう言えよ」
「……言って欲しけりゃな。あーあー、そりゃあがっかりしたともさ。ここで一発勝ってりゃ感動的な青春のワンシーンってヤツだろうけどよ。ショボい幕切れだよな〜見てた客も去年全国優勝したから舞い上がったとか噂してたぜ。まあ、当たらずとも遠からずってヤツじゃねえの?」
「てめえ!」
大きく両手を広げて肩を竦めてみせたサンジの手首をゾロが掴む。
「んだよ、お前が言えって言ったんだろうが」
「言い過ぎだ馬鹿野郎」
ムスッとした表情になったが、ふとゾロはサンジの掌に視線をやった。「…どうした。怪我してんじゃねえか」
「え?あ」
サンジが手を引っ込めようとするがゾロの腕の力の方が強い。身を捩った為に上半身がぐらついて二人とも揃って転がる形になった。
「怪我って程じゃねえよ。見りゃ分かんだろ。ちょっと爪で」
「爪って、お前ちゃんと短く切ってんじゃねえか。なのにこんな傷、よっぽどきつく──」
「うっせえな、てめェのせいだろが」
間近に彼の真剣な顔があるので、サンジは居心地が悪そうにぶつぶつ言う。
「何がだよ」
「試合見てたらこうなったんだよ。悪ィか」
細い瞳を僅かに大きく開き、ゾロはサンジを眺めていたが、やがて唇の端を上げた。
「てめェは、マジで俺に惚れてんだな」
「バッ…何ぬけぬけとお前…」
「好きだってんなら」
ゾロがサンジの手首を持ったまま畳に押しつけた。「俺に抱かれてもいいと思うか?」
静かな瞳で見下ろされる。白っぽい電灯がやけに眩しかった。
以前、わざとふざけて彼に触れたことはあっても、それは彼が真剣に受け止める訳がないと知っていたからだ。その彼が自分に抱かれてもいいのかと訊ねている。
サンジが口を開く前にゾロはくくく、と喉の奥で笑った。
「冗談だ。俺ァ男とのやり方なんて知らねえ」
「俺だって知らねェよ」
「でも、ま」
ゾロはやっとのことで手を離し、頭をゆっくり落としてサンジの肩口に顎を乗せた。「好きなのは嘘じゃねェだろ?じゃあ、ちっとだけこのままでいてくれ」
正直重いのだが、サンジは何も言わなかった。彼がついた大きな溜息に何も言えなかった。そっと彼の後頭部に手をやり、撫でる。幾度も幾度も、優しく。
「──残念だったな」
囁きよりは独り言みたいなサンジの一言に、ゾロがピクリと肩を揺らした。顔を上げると目線が絡む。
至近距離でかえって表情は判然としないが、彼の目頭に溜まっていた水滴がつと流れてサンジの頬に落ちた。ゾロが奥歯を噛むのが、一層引き締まる口元で分かった。
「悪ィ、負けて」
搾り出すその声が僅かだが震えていた。
肉体的にも精神的にも強くて頼れる剣道部の主将は涙さえも潔しとしない。自分は泣いてはいけないと、言い聞かせていたのではないだろうか。
「…みっともねえてめェも好きだぜ。その分また、前よりも強くなんだろ?」
「おだてんな、アホ」
「本気だけどな」
好きだってのも、お前が強くなるってのも全部。
俺はいつでもずっと本気なんだ。それは、忘れずにいてほしい。
「……ありがとよ」
ゾロの顔がまた降りてきた、と思ったらさっきとは角度がずれて驚く前に唇が重なっていた。
心臓は跳ね上がったけれど、サンジは黙って瞼を伏せる。
自分がゾロの何かを埋められるのなら、感謝のキスでも、負けた詫びでも、単なる気まぐれでも構わなかった。
尽くしているとは、感じない。
だってお前は知らねえんだろ…?
傍にいるだけでこんなに胸が詰まる。気持ちがいっぱいになって溢れ出す。
幸せはきっと自分の方が多く与えられてるんだと。

「いいのかよ?自惚れちまうぜ」
同じように気持ちを返せとは言わない。でも。
こんなふうにお前自身をさらけ出すのは俺の前だけだって思ってもいいか。
「いいんじゃねェか。てめェがいて…安心すんのは、本当だ」
ゾロは唇が殆ど触れ合いそうな距離で呟き、再びサンジにくちづけを落とした。


好きだと言われた訳でもないのに満たされる心が。

キスから吐息から、少しでもゾロに伝わるといい。

-fin-
20031218


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