霞割

 

 

朧げに厚い雲に隠れていた月が覗いた。
黄色と言うよりは青白い冴え冴えとした光。
甲板で鍛錬をすべく一人闇に出たゾロだったが、らしくないと思いながらもふと月を見上げる。日付けが変わり、数時間が経っている。あと少しすれば夜明けだろう。
ぎしりと床を踏む音と共に、剣士は反射的に刀に手をやり身構えた。
敵ではない。分かっている。
だが、その男が放つ鋭い空気は不寝番への差し入れをしたり月を肴に酒を飲むといった情緒あるものでは全くなく、殺気すら孕んでいた。
夜のしじまに溶け込みそうな黒いスーツ。月光が差していたのは運が良かっただろうか。それでも彼の表情が定かになるほどではない。
「──刀、抜け」
サンジが低い声を発する。いつものごとく煙草を吸っているのは見て取れた。微かに煙の匂いが鼻をつく。
「物騒だな、夜中に」
何か彼を怒らせることをしただろうかとゾロは前日からの記憶を探るが、特に心当たりはなかった。始終小競り合いはしているが、ここ数日は仲が良いとは言えなくてもクルーとしての日常に差し障りがない程度には、平穏に過ごしていた筈だ。
「いったい何のつもりだ?寝ぼけてんじゃねェのか、クソコック」
「ゴタゴタくっちゃべってねェで、さっさと抜けってんだよ。てめェを曲りなりにも剣士として殺してやろうってんだ。大いに感謝しやがれ」
「てめェなんぞに感謝もしねェし、殺されんのもゴメンだが」
サンジが腰をやや捻って蹴りを繰り出す姿勢に入った為、ゾロは抜刀した。どうやら、こいつは本気だ。「相手して欲しいってんならしてやる」
腹筋や素振り以外の鍛錬とでも思えばいい。
それが顔に出たのか、サンジがふっと笑った。
「生憎だが練習試合じゃねェんだぜ、剣豪さん」
長い足が弧を描いて打ち下ろされた。
手加減は感じられなかった。
ガキッと鈍い音。サンジの靴を鬼徹の柄で受け止め、片方の手で雪走を滑らせる。サンジが信じられない程の跳躍で避け、くるりと一回転した体から蹴りが放たれる。
肩の衝撃に眉を顰めたものの、容赦なく叩き込まれる踵に休む間もない。
マストに追い詰められてサンジが再び足を振り上げた瞬間を狙い、渾身の力で薙ぎ。払う。
壁に衝突したサンジの頬から血が伝い、彼がそれをぺろりと舐めて口角を上げた。
なおも続く攻防。
いったいどれくらい、時間が経ったのか二人には分からない。
辺りはまだ暗いから朝には遠いのだろうと思うが、手を抜かず引かずの戦いは短いようで長々とも感じられた。
双方のはあはあと荒い呼吸が交じり合って聞こえ、自分の息か相手の息かも判別がつかない。
──いい加減、決着をつけてやる。
ゾロが流れる汗を邪魔そうに拭った。
這うように走って。刀を握り直し刃を返し勢いのままに斬る。しかし収穫は彼の上着の裾のみ、狙う獲物は未だ捉えられず。
ひらひら舞う、布の切れ端。
「やりやがったな。弁償してもらうぜ?体でよ」
ゾロよりもさらに低い体勢で開脚し掌を床につき流れるような動作で剣士の足元を掬う。
膝をついた刹那飛び掛る、疾風に似た黒い弾丸。
「ぐっ」
「諦めてネンネしな!」
肋骨にまで食い込むかと思う蹴り、倒れこんだ背中をぐいと踏みつけられた。血を吐く。
「…俺の台詞だ」
ぎり、と歯を食い縛りサンジの体を撥ね除けた。
素早く和道一文字を咥え、残る二本も隙なく構える。
「ワンパターンなんだよ、マリモの考える事はよ」
決め技が来ると知っていて、大人しく待っている馬鹿がいると思うか。
襲いかかる風圧にサンジは目を細めて衝撃から逃れようと飛び退る。
そこにゾロは再び攻めかけた。スピードはサンジが優れているが、的にさえ絞り込めれば攻撃の重さはこちらに分がある。
「しまっ…」
サンジが目を見開き尻をついた。ゾロは彼に馬乗りになり、その耳を殆ど掠めるほどの距離で峯を床に突き刺す。
「──降参しろ」
ゾロが言うとチッ、とサンジが舌打ちをした。
「分かったよ。殺すんなら殺せ」
「その前に何でこんな喧嘩売ったのか聞かせてもらおうか」
「喧嘩だあ?まだそんな生ぬるい事言ってやがる」
止め刺す気がねェなら退け、とゾロを押しやった。「すっかり腑抜けになっちまったみてェだから、この俺がぶっ殺してやろうと思ったんだよ」
「誰が腑抜けだって」
「てめェだ。てめェは何でこの船に乗ってたんだ?世界一の男を倒して、自分がそうなる予定だったんだろうが。なのに鷹の目が近くにいるって聞いて、ビビッてんじゃねェかよ」
ゾロはまくしたてるサンジを睨んだ。
「…ビビッた訳じゃねえ。刀を研いだら、すぐにでも行くつもりだったさ」
「それが本当ならいいけどよ。口だけなら何とでも、だ。きちんと行動で証明してみろ」
「言われなくてもな」
迷いのない横顔を眺め、サンジが紫煙を燻らせる。
「上等」
ポツリ呟き、肩を聳やかしてキッチンに入るサンジにゾロは声をかけた。
「…悔しくねェのか、俺に負けて」
「もともと最初っから俺の勝ちは決定してんだよ、阿呆。俺を誰だと思ってやがる?」
白み始めた空を背にサンジは振り向くと、顎を反らして剣士を見下ろす。「コックに逆らって生きられると思うんじゃねえぞ。俺の真剣勝負は料理なんでな。それに関しちゃ誰にも負けるつもりはねェ」
「負け惜しみにも聞こえるがな」
「あァ?うっせえんだよクソ野郎。文句あんならまず、鷹の目に勝ってきやがれ。その時だけは、てめェの為にとっておきのご馳走を作ってやるさ」
サンジは優しさなど微塵もない仕草ですげなく、ゾロへ向かって吸殻をポイと投げ捨てた。


 

 

-fin-

 

 

【霞割(かすみ・わり)】
権力範囲の区分。縄張の地。

[TOP]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送